出口王仁三郎 文献検索

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物語64a-2-101923/07山河草木卯 追懐念王仁三郎参照文献検索
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第一〇章 追懐念〔一六三九〕

 その翌日もまた、スバツフオード及びマリヤと共にブラバーサは自動車を雇つて、死海、ヨルダン、エリコ等の地方見物に出かけたりける。
 ジヤツフアの門からダマスカスの門、ヘロデの門の前を通つてキドロンの谷からエリコの道へと出た。自動車がしばらく走ると、橄欖山の東南ベタニヤの村を通る。ベタニヤはアラブの名ではエル・アザリエと云つて居る。この名はラザロから来たので、アラブはラザロのLを冠詞と認めて省略したのだといふことである。ラザロは回教徒の間においても聖者として尊敬されて居るのである。ベタニアの村はキリストに関する種々の美しい物語で充ちて居て、その名を聞いただけでも心が暖かく成つて来る。癩者シモンの家、そこで昔マグダラのマリヤがキリストの足を涙にて湿し、頭髪を以てぬぐひ香油をこれに塗つた。マルタ、マリヤの姉妹の家もここにあつたと云ふ。ラザロが死後四日を経て蘇へらせられた所もまたここで在つたといふ。今はミゼラブルな四五十の回教徒の家が、其処此処に散在して居るに過ぎないのである。
 三人は下車してラザロの墓やシモン、マルタ、マリヤの家の廃趾と称せられて居るものを見物した。ラザロの墓と云はれて居るものは非常に大規模なもので、滑りさうな階段を地下へ向かつて二十二段も下つて行かねばならぬ。内部は穴蔵のやうに真つ暗で、持つて行つた蝋燭で照して見なければ成らなかつた。丁度桶伏山麓の神苑内の地下の修行室をブラバーサは思ひ出さずには居られ無かつた。村のアラブの子供等が「バクシツシユ」(小銭のこと)と叫びながら、車の周囲に群がつて来てブラバーサ一行の興を醒ますのであつた。
 ベタニアの南でこれに対して居る丘の上にベツフアージエの村がある。ここで使徒たちがキリストの指示のままに木につながれた一頭の牡の驢馬を見付け、キリストはそれに乗つて都へのり込んだと伝ふる所である。
 ベタニアを出て少しばかり歩むと、路傍に小さいチヤペルが建つて居る。馭者は主を迎へに来たマルタがここで彼に逢つた所だと説明する。道は段々と谷に下つて行く。到る処岩の山ばかりで薄く覆はれた土は橄欖は勿論灌木や草類さへも生じない。自然は全く死んだやうでその光景は物すごい位である。所々に駱駝の群が飼放しにしてあるのは、今まで他所で見受けなかつた光景である。マリヤはよくエルサレムと聖者キリストとの関係を熟知せるものの如く、頻りに新約の文句を引出して説明して居る。
 三人はエリコとエルサレムとの中間まで出て来た。道路は再び上り坂となる。自然は全く荒れ果てて居て、生物らしきものは何一つ見当らない。伝説によれば良きサマリア人の話はこのあたりだとか、小山の頂にサマリア人の旅宿と名の付いた、小さい建物のルインが寂し気に立つて居る。
 それより前は道路が山々の中腹を縫ふて死海の谷へと急転直下するばかりである。道で時々羊の群に逢つた。その群の中には、今生れたばかりの二三匹の羊の児を荒いメリケン粉の袋に入れて、背負はされた驢馬が交つて居るのは、何となく可憐な光景であつた。下の方に時々谷の木の間から死海の面が輝いて見えて来る。
 三人は遂にヨルダンの谷に下つた。両側の山は削つたやうに屹立して居るが、中は広々として居て、これが地中海面以下四百メートルの谷底にあるとは到底受けとれない位である。葦草が所々に生えて泥路と砂地の中を死海の浜へと向かつた。野生の鶴や放ち飼の駱駝に途々出会ふ。
 浜に近く塩を採るための水溜りがあつて、端には真白の結晶が附着して居る。そして二三の見すぼらしいアラブの小屋が荒い砂の上に立つて居るばかりで、驢馬や駱駝の縛ぎ場になつて居るので恐ろしいほど不潔で厭な臭気が鼻を突く。水面は全く波浪なく朝の麗かな日光にかがやいて居て、死海と云ふ恐ろしい名称は応はしく無いやうに思はれる。水には強度の混和物が在るために多少の濁りを帯びて居る。水を指頭につけて味はつて見ると強烈な苦みがかつた塩辛い鉱物質を含蓄して居る。鉱物質の割合は百分の二十四乃至二十六で塩分は百分の七だと云ふことである。水が重いので泳がうとしても、身体が全部水面に浮かみでてしまつて泳ぐことが出来ぬのである。生卵子でも三分の一は水面に浮かみ出ると云ふ事である。死海の水は一種の滑かな膚ざはりを与へるが、容易に一旦人の身に触れた以上は塩気が離れないので気持ちが悪い。
 三人はそれよりヨルダン河へと向かつて進んだ。広い平野は一面に黒ずんだ土で、一見した処非常に豊饒らしく思はれるが、土地は含まれて居る塩分のために全然不毛の地となつて耕作物は駄目なのである。
 しばらくあつて三人は、身の丈以上もある葦の中をすれずれに通りながらヨルダンの河畔マハヂツト・ハヂレと云ふポプラや柳の生えて居る渡船場のやうな場所に到着した。細い木の枝を組合せ葦で屋根をふき、湿気を防ぐため細い材木で一丈ばかりを床を高め、梯子様の階段でのぼつて行くやうにした南洋風の土人の原始的の小屋と木蔭に旅客の休憩のため二三のベンチとがある。イタリー語を話すスペイン人の二三のフランチエスカンの坊さまが、そこで休憩して居た。今日は日曜日の事とて、朝早くからここへ来て野天でメスをしましたと話して居た。
 木立ちの下から河の水面が見える。平常から濁つて居る筈の水は昨日の大雨のために猶更黄色になつて居た、水量は多くしてしかも流れは急である。有名なのに似気なく小さいと聞いて居た通りで、河の幅は一百尺前後の程度である。ここは巡礼の人々の浴場になつて居てキリストが洗礼者のヨハネから洗礼を受けられた所と伝へられて居る。昔のキリスト教徒の間にはヨルダン河で洗礼を受ける事を非常に大切な事とし、多勢の巡礼者はアラブの案内者に引率されて羊の群のやうにヨルダンの谷をここまで下つて来たものである。それから当時この場所は河岸が大理石でおほはれて居たと云ふことだ。
 馭者は特にロシアよりの巡礼者の敬虔な態度に就いて話した。彼等は所在窮乏を忍んで茶とパンとのみで旅行を続け、その持つて来た金を全部寺々に捧げてしまふのだと云ふ。ブラバーサはエルサレムの方々の寺でロシア人の奉献したと云ふ金銀や宝玉づくしの聖母の像を見受けた事を思ひ出して、高砂島の聖地における信者の態度に比較し長大嘆息を禁じ得ないので在つた。三千世界の救世主厳の御魂瑞の御魂の神柱に現在に面会の便宜ある高砂島のルートバハーの信徒の態度は、このロシア人の信仰に比べては実に天地霄壤の差ある事を深く嘆じたのである。ヨルダン河及び死海から程遠からぬ所にエリコがある。現在のものは旧新約時代のエリコとは違つてゐる。これから多少ヨルダンの中央部の方へ離れて居る。見すぼらしい小さい村落で、土人の家屋と質素な教会やモスクが二三見えるばかりである。谷底に位して居るので気温は非常に高く、蒸し暑く植物は皆准熱帯的のものである。無花果や棗や芭蕉実の外、黄色の香りの良いミモザが咲き頻つて居る。
 三人は新エリコの村落を通つて西方の山の近くの発掘された新約のエリコを見に行つた。ここにヘロデ王がその宮殿を建てたとの話がある。その一角は今より十余年前ドイツ人の手によつて発掘されて居た。旧約のエリコの所在は其処とは違つて、現在のエリコから東北の方徒歩二十五分ばかりの所にある。
 エリコからエルサレムの方角の断崖になつて居る岩山の眺望は物すごいやうである。中腹にギリシヤ正教の一僧院が建つて居る。その背後の山はそこでキリストが悪魔の誘惑を受けた所から「誘惑の山」と云ふ名が付いてゐる。四十日四十夜の断食の荒野もこの先の方にあると馭者の話しであつた。
 三人は帰路についた途中、橄欖山の麓にあるゲツセマネの園と聖母の寺とを訪れて見た。ゲツセマネの園は三方が道で囲まれ不規則な四角形をなし、厚い石壁を以て囲らされて居てフランチエスカンの所有に成つてゐる。ここを新約のゲツセマネと定めたのは四世紀以前のことだと云ふ。門の外には自然の岩の頭が地上に現はれてゐてその上でペテロ、ヤコブ及びヨハネが眠つたのだと伝へられてゐる。園内には非常に古い数本の橄欖の老樹が植わつて居て、その時からの物だと云われてゐる。橄欖樹は人間が触れさへしなければ幹が枯れた後でも、その根から新しい芽生が出てかくして世紀から世紀へと生延びると云ふ事であるから、この伝説は或は事実に近いものかも知れない。その他ユダがキリストに接吻した地点まで明示されて居る。エルサレムや橄欖山の地位からしてゲツセマネの園がこの辺りに在つたことは事実らしい。しかし七十歩四方ばかりの狭い土地を重くるしい石垣で囲んでその中を墓地のやうに、また近代的の庭園のやうに飾つてこれをゲツセマネの園となすことは、無限の大きさと深さを持つたものを無残にも限り有るものの中に閉ぢ込めて置くことは実に残念である。ブラバーサは凡ての在来の法則を破つて霊のみで画かれたやうなロンドンのナシヨナル・ガラリーにあるエル・グレコの筆を思ひ浮かべて、この物足りない感じを補つて居た。
 聖母の寺はゲツセマネの園に対して居る紀元五世紀以来存在してゐる古い寺院である。その主要部分は地下に成つて居て大理石の階段を四五十下つて行くとマリアの棺、その両親の棺、ヨセフの墓、キリストの血の汗を流された場所等がある。
 ケドロンの谷をシロアムの村の方へ少しばかり下ると、山の麓に奇妙な三つの建築物が並んで居てアラブが住んでゐる。
 ブラバーサは初めてこの地に来たり、親切なるアメリカンコロニーの人々に沢山の聖書上の由緒ある場所を案内され満足の態であつた。アヽ聖地エルサレムそれは学者とパリサイ人の都、死せる儀礼の中枢また死海及びヨルダン、それは荒野に叫ぶ洗礼者ヨハネの国すべてが単調で乾き切つて死んで居る国、ルナンをして世界において最も悲しき地方と云はしめたエルサレムの近郊よ。一時も早くキリストの再臨を得てこの聖地を太古の光栄の都に復活し、神政成就の神願を達成せしめたきものであるとブラバーサは内心深く祈願を凝らしつつ一先づ三人はアメリカンコロニーへと帰り行く。
 その翌日またもやブラバーサはマリヤに案内されて、湖の水清き山々に翠の影濃く美しく花咲き小鳥の声の絶えない自然全体が笑つて居る、さうしてその湖のほとりでキリストが黙想し祈祷しかつ教を垂れられたガリラヤの地へと進んだ。エルサレムとガリラヤ、それはキリスト教の示す二元主義の象徴である。死を経験すること無しに生の恩恵は分らない、律法によりて死し信仰によりて生ること、この転換こそ宗教そのものの奇蹟的力であるべきものなり。

(大正一二・七・一一 旧五・二八 加藤明子録)



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