出口王仁三郎 文献検索

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物語57-1-11923/03真善美愛申 大山王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
大山の六師外道 神霊研究について 十二因縁
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本文    文字数=14433

第一章 大山〔一四五一〕

 金輪奈落の地底から  風輪、水輪、地輪をば
 貫き出でたる大高峰  伯耆の国の大山は
 日本大地の要なり  白扇空に逆様に
 懸りて沈む日本海  八岐大蛇の憑依せる
 大黒主の曲津見が  簸の川上に割拠して
 風雨を起し洪水おこし  狭田や長田に生ひ立ちし
 稲田の姫を年々に  悩ませ人の命をば
 取らむとせしぞ歎てけれ  大正十二癸の
 亥年の春や如月の  日光輝く夜見ケ浜
 小松林の中央に  堅磐常磐に築きたる
 神の恵みの温泉場  浜屋旅館の二階の間
 いつもの通り横に臥し  真善美愛第九巻
 波斯と月の国境  朝日もきらきらテルモンの
 山の館に住まひたる  小国別が物語
 三千年の末までも  その功を残したる
 三五教の三千彦が  難行苦行の経緯を
 いよいよカータルブラバーサ  マハーダルマ・タダアガタ
 ただ一言も漏らさじと  東の窓に向ひつつ
 万年筆を走らせる  夜見の浜風颯々と
 吹き来る度にカーテンが  バタリバタリと拍子取り
 言霊車押し来る  アヽ惟神々々
 御霊幸倍ましまして  五十と七つの物語
 完全に委曲に述べ終へて  綾の聖地の家苞に
 なさしめ給へと大神の  御前に謹み願ぎまつる
 朝日は照るとも曇るとも  月は盈つとも虧くるとも
 仮令大地は沈むとも  誠一つの三五の
 教の主意を一通り  写さにやならぬ神の法
 湯にあてられて瑞月が  腹をガラガラ下らせつ
 下らぬ理窟を交ぜて  浜辺で取れた法螺貝の
 止度もなしに吹き立てる  

   ○
 三五教は大神の直接内流を受け、愛の善と、信の真をもつて唯一の教理となし、智愛勇親の四魂を活用させ、善のために善を行ひ、用のために用を勤め、真のために真を励む。故にその言行心は常に神に向ひ、神と共にあり、所謂神の生宮にして天地経綸の主宰者たるの実を挙げ、生きながら天国に籍を置き、恰も黄金時代の天人の如く、神の意志そのままを地上の蒼生に宣伝し実行し、以て衆生一切を済度するをもつて唯一の務めとして居たのである。故にバラモン教ウラル教その他数多の教派の如く、自愛または世間愛に堕して知らず識らずに神に背き、虚偽を真理と信じ、悪を善と誤解するが如き行動は取らなかつたのである。神より来れる愛及び善並に信真の光に浴し、惟神のままにその実を示すが故に、麻柱の教と神から称へられたのである。自愛及び世間愛に堕落せる教は所謂外道である。外道とは天地惟神の大道に外れたる教を云ふ。これ皆邪神界に精霊を蹂躙され、知らず知らずに地獄界及び兇党界に堕落したものである。外道には九十五の種類があつて、その重なるものは、カビラ・マハールシといふ。このカビラ・マハールシは、即ち大黒主の事であり、三五教の真善美の言霊に追ひ捲られて自転倒島の要と湧出したる伯耆の国のマハールシ(大山)に八岐大蛇の霊と共に割拠し、六師外道と云つて外道の中にても最も勝れたる悪魔を引き率れ天下を攪乱し、遂に素盞嗚尊のために言向け和されたのである。六師外道とは、ブランナーカーシャバ、マスカリー・ガーシャリーブトラ、サンジャイーヴィ・ラチャーブトラ、アザタケー・シャカムバラ、カクダカー・トヤーヤナ、ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラの六大外道である。この外道は古今東西の区別なく今日と雖も尚天下を横行濶歩し、暴威を逞しうして居るのである。
 ブランナーカーシャバとは君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友等の道を軽んじ、現界の一切を無視し、生存競争、優勝劣敗をもつて人生の本義となし、軽死重生の主義を盛に主張し、宇宙一切は総て空なり、無なり、人間の肉体は死滅するや否や煙の如く消え果て、死後の霊魂等は決して残るものでない。果して死後に霊魂ありとすれば、例へば唐辛子を焼いて灰となし、尚ほその後にも唐辛子の辛味存するや、決して存在せざるべし。これを思へば人間死後の生活を論ずるは迂愚の骨頂なり、迷妄の極みなりと断案を下す唯物論者の如きものである。次に、
 マスカリー・ガーシャリーブトラは、一切衆生の苦悩も歓楽も決して人間の行因によるものではない。何れも自然に苦楽が来るものである。例へば茲に一つの種子を蒔くに、その種子は肥えた土の日当りよき所に蒔かれたのは、他に勝れて発達し、枚葉繁茂し、麗しき花を咲かせ、麗しき実を結び、人に愛せらるるに引き替へ、同じ種子でありながら、痩せた土地に蒔かれ、或は陰裏に蒔かれた時は十分の光線を受くる事能はずその発育も悪しく花も小さく、満足な実も結ばないやうなものである。しかるにその種子に善悪は決してない。同じ木から取つた同じ種である。またその種には決して善の行ひも悪の行ひもない。ただ蒔かれた所の場所即ち境遇によつて、或は歓喜に浴し、或は苦悩に浸るのである。故に人間は、蒔かれた所が悪ければ、何程気張つてもよき場所に蒔かれた種に勝つ事は出来ない。故に人間の苦楽には決して行因はないものだ、と主張する無因外道である。またこれを自然外道とも云ふ。次に、
 サンジャイーヴィ・ラチャーブトラと云ふのは、人間は決して修業なんかする必要がない。天地の草木を見ても春が来れば自然に花が咲き、秋が来れば自然に実が生り、冬が来れば自然に葉が散る如く、八万劫が来れば自然に人間の苦は尽きて道を得るとなすものである。要するに自暴自棄、惟神中毒の外道であつて、これを無因外道の一種となすのである。二十世紀の三五教にはこの種の人が随分混入して居るやうである。次に、
 アザタケー・シャカムバラ、この外道は現世において、何でも構はぬ、苦しみさへして置けば、きつと他生において、天国に生れ、無限の歓楽に浴し、百味の飲食を与へられ、栄耀栄華に平和の生活を永遠無限に送られるものとなし、人間として営むべき事業もなさず深山幽谷に身を潜め、火物断をしたり、穀食を避け、松葉を噛み、芋などを掘り、空気を吸ひ、寒中真裸、真裸足となりて寒さを耐へ、夏は蚊に刺されて所有苦しみをなし、その苦の報いを来世に得むとする所謂苦行外道である。この外道もまた今日は随分彼方此方に現はれて居る。さうして真理に暗き現在の人間はかかる苦行外道を指して真人となし、聖人と尊び神仏の如く尊敬するものである。かかる苦行外道を尊敬する人間もまた、同気相求むるの理によつて知らず識らずに地獄道に籍を置いて居る小外道である。次に、
 カクダカー・トヤーヤナ、この外道はバンロギズム(汎理論)、スピリチュアリスチック・バンセイズム(唯心的汎神論)だとか、バンフシギズム(汎心論)だとか、アーセイズム(無神論)だとか、ブルラリズム(多元論)だとか、モニズム(一元論)だとか或はソシアリズム(社会主義)アナーキズム(無政府主義)だとか、ニヒリズム(虚無主義)だとか、コンミュニズム(共産主義)だとか、種々雑多の利己的、形体的、自然的、世界的愛に対して意見を盛に主張し、無形の霊界に対して一瞥もくれず、且霊界や神仏を無視しながらも、現界においても徹底する能はず、霊界においては等閑ながらも、ある時は些しく霊界の存在を認めて見たり、ある時は現界ばかりに執着したり、精神の帰着点を失ふたり、二途不摂の異見外道である。次に、
 ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラ、この外道は、人間の苦楽と云ふものは素から因縁が定つて居るものだ。例へば三碧の星はどうだとか、九紫の星はどうだとか、子の年に生れたからどうの、丑の年に生れたからどうだとか、身魂の因縁が好いとか悪いとか、宿命説に堕落した宿命外道である。かかる宿命外道は如何ほど神仏を信仰するとも、自分の定まつた運命を転換する事は出来ない。何事も運命と諦めてその道に殉ずるより外はない。オタマ杓子は鯰に似てゐるが、少し大きくなると手足が生へて蛙になつてしまふ。どうしても鯰になる事は出来ない。それ故因縁の悪いものが神を信じた所で誠を尽した所で決して立派なものになれさうな事はない。何も前世の因縁性来だと断定をくだす無明暗黒なる常見外道であるが、かくの如き外道は、何れも神或は仏以外の所見にして、各一派の学説を立て、科学に立脚したる霊魂研究でなければ駄目だとか、或は神仏の名を標榜する事を忌み嫌ひ、太霊道だとか、二灯園だとか、或は何々会だとか、勝手な名を附して霊界を研究せむとする所謂常見外道である。現代はこの外道最も蔓延し神仏の名を称ふるよりも霊智学とか、神霊研究だとか、霊学研究会だとか云ふ科学的名称に隠るるを以て文明人の態度らしく装ひ、蟻の甘きに集ふが如く集まり来つて、雲の彼方の星を探らふとする如き外道である。かくの如きニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラは三五教の中からも折々発生したものである。何れも自尊主義の慢心から、かかる外道に知らず識らず堕落するのである。
 序に十二因縁を略解して置く、人間には、

 一、無明、  アヸドヤー
 二、行、  サンスカーラ
 三、識、  ボヂニヤーナ
 四、名色、  ナーマルーバ
 五、六入、  サダーヤタナ
 六、触、  スバルシャ
 七、愛、  エータナー
 八、愛、  ツルシューナー
 九、取、  ウバーダーナ
 十、有、  バヷ
 十一、生、  ヂャーチ
 十二、老死、  ヂャラー・マラナ

の十二因縁がある。
 無明とは、過去一切の煩悩を云ひ、行とは過去煩悩の造作を云ひ、識とは現世母の体中に托する陰妄の意識を云ふ。名色の名とは心の四蘊であり、色とは形質の一蘊である。六入とは、母の体中にある中において六根を成ずるを云ふ。触とは三四才までに外的の塵埃の根元に触るるを覚ゆる状態を云ふ。愛とは生れて五六才より十二三才までの間に強く外部の塵埃を受けて、好悪の識別を起すを云ふ。愛とは十四五才より十八九才までの間に外塵を貪り愛する念慮を起すを云ふ。取とは二十才以後一層強く、外塵に執着の念を生ずるを云ふ。有とは、未来三有の果を招くべき種々の業因を造作し、積集するを云ふ。生とは未来六道または八衢の中に生ずるを云ふ。老死とは未来愛生の身体、また遂に朽壊するを云ふ。この十二因縁はどうしても人間として避くべからざる事である。しかしながら、この十二因縁の関門を通過して初めて人間は神の生涯に入り、永遠無窮の真の生命に入つて、天人的生治を送るべきものである。しかるに総ての多くの人間は九十五種外道のために身心を曇らされ忽ち地獄道に進み入り、宇宙の大元霊たる神に背き、無限の苦を嘗むるに至るものが多い。故に神は、厳瑞二霊を地上に下し天国の福音を普く宣伝せしめ、一人も残らず天国の住民たらしめむと、聖霊を充して予言者に来らせ給ふたのである。如何に現世において聖人賢人、有徳者と称へらるる共、霊界の消息に通ぜず、神の恩恵を無みするものは、その心既に神に背けるが故に、到底天国の生涯を送る事は出来難いものである。約束なき救ひは決して求められないものである。故に神は前にシャキャームニ・タダーガタを下して霊界の消息を世人に示し給ひ、またハリストスやマホメットその他の真人を予言者として地上に下し、万民を天国に救ふ約束を垂れさせられた。されど九十五種外道の跋扈甚だしく、神の約束を信ずるもの殆ど無きに至つた。それ故世は益々暗黒となり、餓鬼、畜生、修羅の巷となつてしまつた。茲に至仁至愛なる皇大神は、この惨状を救はむがために、厳瑞二霊を地上に下し、万民に神約を垂れ給ふたのである。ああされど無明暗黒の中に沈める一切の衆生は救世の慈音に耳を傾くる者は少い。実に思うて見れば悲惨の極みである。ああ惟神霊幸倍坐世。

(大正一二・三・二四 旧二・八 於伯耆国皆生温泉浜屋 加藤明子録)



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