出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語56-0-11923/03真善美愛未 序文王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
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本文    文字数=4811

序文

 瑞月王仁が横臥したまま、この物語を神示に従ひ口述せるを見て、大本人の中に色々の批評を下して居る方々があります。役員も信者もまた長屋の主人までも、口を揃へて……神様とも在らうものが、謹厳なるべき霊界の有様を発表するに際し行儀の悪い寝そべつてどうして真実の事が伝へられるものか。かくの如き手続に由つて成りし著書は一読すべき価値の無いものだ……と謂つて一口に毀つて居る人もあります。勿論神様としては口述者の肉体を行儀よく端坐させておいて御伝へ遊ばされたきは最もで在りませう。しかしながら瑞月は一昨年以来非常に健康を害し、日夜病気に苦み悩み到底一時間と坐つて居ることの出来ない状態でありました。この肉体の健康に復するを待つて居やうものなれば何時になるか判らない。それでは数多の信者や世界の人々に対して神様の御仁慈の御思召を宣伝する事は出来ませぬ。思想の悪潮流は天下に氾濫し殆ど泥海と化せむとするこの際一日も猶予する訳には行かない。仁慈深き大神は世界万民を救ひ至治太平の神代を一日も早く築き上げ、万有一切を天国の楽園に遊ばしめ、地獄の惨状より救はむとの御考へより、止むを得ずして、変則的方法を一時お採りになつたのであります。神の仁慈は到底人間の計り知るべき限りではない。中には……瑞月は神に仕ふる身なれば二六時中極めて壮健にして病気などに犯さるべき道理が無い、それに日夜病気に苦しんで居るのは何か御神慮に叶はない事が有るのに違ひない。そんな神慮に叶はない人の口から喋つた寝言を聞いて何にするか……と言つて居る人もチヨコチヨコあるやうに聞いて居りますが、王仁は二六時中沢山の信者の病気平癒を各地において祈る声が耳に聞え来ると共に、その苦痛の幾分かを助けて居るのだから、大本信者に病人の絶滅せない限りは、瑞月王仁の肉体は断じて健康体に復する事はありませぬ。瑞月王仁が病気病魔と戦いながら、孜子として神業の一端に奉仕するその苦衷を察せない人々は右様の批難や攻撃をさるるのは寧ろ当然でありませう。昨年未信者しかも基督教信者の某氏が瑞月に向つて……霊界物語を寝ながら口述するのは不都合ではないか……と詰問された事がありました。瑞月はその時左記のやうな事を答へて置きました。
……現代の立派な人間様は何れも大道を直立して歩行活動して居ながら、蟹のやうに神意に反せる横道ばかりを行つて居るぢやありませぬか。社会の潮流は滔々として横流して居る、河の水も潮水も皆横に流れて居る。それ故、俗界の人々に交つて共に活動せむと思へば神意に反したる行動を取らなければならぬ。かう謂へば余り消極的だとまた言はるるかは知らぬが、横臥して静に宇宙の真理を考へ神意に背かざる誠の解釈をなし、神教宣伝使としての公平なる判断をなし、社会の活動者を大神の愛護の下に立派によく立ち働かしめむとするためである。また横に寝て王仁が働くと云つたのは、眼を塞ぎ眠ると云ふの謎である。体主霊従の現代人の行動は正しき人間としては真面目に眼を開けて見ては居られない。一切の自我心を捨て安静安眠の境地に立つて些しも偏せず、宇宙精神の真髄を探つてこれを世人に伝へむために、霊界物語を著はして居るのである。地上を横流する河水は滔々として些しも淹滞せない。しかし士農工商に従事する活人は、無論立つて働かねばならないのは当然であることを心得て貰ひたい……
と云つた事がある。要するにこれは一種の詭弁でもありませうが、実際のことを言へば今日の世態を見て吾々は傍観する事が出来ない。止むを得ず、病躯を駆つて世のため道のために犠牲的に立ち働いて居るのであります。何程寝物語だと謂つてもその内容は決して眠つては居ないことを茲に告白しておきます。惟神霊幸倍坐世。

 蟹が行く横さの道を歩むより
  横に立ちつつ道をたて行く

   大正十二年三月十四日
      於竜宮館



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