出口王仁三郎 文献検索

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物語52-1-11923/02真善美愛卯 真と偽王仁三郎参照文献検索
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第一章 真と偽〔一三三七〕

 人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正副守護神と云ふ。そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは一方は内底神の善に向ひ、真に対し、外部は自愛及び世間愛に対し、これをよく按配調和して広く人類愛に及ぶ所の精霊である。また副守護神とはその内底神に反き、ただ物質的躯殻即ち肉体に関する欲望のみに向つて蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食を以て最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争を以て唯一の真理と看做す精霊である。しかして人間の霊魂には、我神典の示す所によれば荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されてゐる。四魂の解説は已に既に述べたれば茲には省略する。荒魂は勇、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親であり、しかしてこの勇智愛親を完全に活躍せしむるものは神の真愛と真智とである。今述べた幸魂の愛なるものは人類愛にして、自愛及び世間愛等に住する普通愛である。神の愛は万物発生の根源力であつて、また人生における最大深刻の活気力となるものである。この神愛は大神と天人とを和合せしめ、また天人各自の間をも親和せしむる神力である。かくの如き最高なる神愛は、如何なる人間もその真の生命をなせる所の実在である。この神愛あるが故に、天人も人間も皆よくその生命を保持する事を得るのである。また大神より出で来る所の御神格そのものを神真と云ふ。この神真は大神の神愛によつて、高天原へ流れ入る所の神機である。神の愛とこれより来る神真とは、現実世界における太陽の熱とその熱より出づる所の光とに譬ふべきものである。しかして神愛なるものは太陽の熱に相似し、神真は太陽の光に相似してゐる。また火は神愛そのものを表し、光は神愛より来る神真を表はしてゐる。大神の神愛より出で来る神真とは、その実性において神善の神真と相和合したものである。かくの如き和合あるが故に、高天原における一切の万物を通じて生命あらしむるのである。
 愛には二種の区別があつて、其一は神に対する愛であり、一は隣人に対する愛である。また最高第一の天国には大神に対する愛あり、第二即ち中間天国には隣人に対する愛がある。隣人に対する愛とは仁そのものである。この愛と仁とは、何れも大神の神格より出で来つて天国の全体を成就するものである。高天原に在つて大神を愛し奉るといふ事は、人格の上から見て大神を愛するの謂ではない、大神より来る所の善そのものを愛するの意義である。また善を愛するといふ事は、その善に志し、その善を行ふや、皆愛によつてなすの意味である。故に愛を離れたる善は、決して如何なる美事と雖も、善行と雖も、皆地獄の善にして所謂悪である。地獄界において善となす所のものは、高天原においては大抵悪となる。高天原において悪となす所のものは、すべて地獄界にはこれを善とさるるのである。それ故に神の直接内流によつて、天国の福音を現界の人類に伝達するとも、地獄界に籍をおける人間の心には、最も悪しく映じ且感ずるものである。故に何れの世にも、至善至愛の教を伝へ、至真至智の道を唱ふる者は、必ずこれを異端邪説となし、或は敵視され、所在迫害を蒙るものである。しかしかくの如き神人にして、地獄界の如何なる迫害を受け、或は身肉を亡ぼさるる事ありとも、その人格は依然として死後の生涯に入りし時、最も聖きもの、尊きものとして、天国に尊敬され且愛さるるものである。次に隣人を愛する仁そのものは、人格より見てその朋友知己等を愛するの謂ではない。要するに大神の聖言即ち神諭より来る所の神真を愛するの意義である。また神真を愛するといふ事は、その真に志し、真を行ふの意義である。以上両種の愛は善と真との如くに分立し、善と真との如くに和合する。
 この物語の主人公なる初稚姫は、即ち二種の愛、善と真との完全に具足したる天人にして、言はば大神の化身でもありまた分身でもあり、ある時は代表者としてその神格を肉体を通して発揮し給ふが故に、よく善に処し、真に居り、如何なる妖魅に出会するとも、少しも汚されず犯されずして、己が天職を自由自在に発揮し得らるるのである。これに反して高姫は総て愛善と信真とを口にすれども、その内底は神に向つて閉塞され、地獄に向つて開放されてゐるが故に、その称ふる所の善は残らず偽善である。偽善とは表面より見て、即ち神を知らざる人の目に至善至徳のものと見ゆる事がある。また至真至誠の言語と見ゆるも、それは総て地獄界に向つてゐる精霊の迷ひより来るものなるが故に、一切虚偽であり狂妄である。例へば雪隠の虫は糞尿の中を至上の天国となし、楽園となし、吾肉体の安住所とし、且この上なき清きもの美はしきものとなすが如く、地獄界に向つて内底の開けたる者は、至醜至穢なる泥濘塵芥及び屍の累々たる所、臭気紛々たる所を以て、この上なき結構な所と看做すものである。しかしながら高姫の肉体としては、矢張肉の目を以て善悪美醜を判別する能力は欠いでゐない。それ故にある時は殆ど善に近き行ひをなし、また真に相似せる言語を用ふることがある。けれども肝心の内底が地獄界に向つてゐるのと、外部より来る自愛心と肉体的兇霊界の襲来とによつて、常にその良心を誑惑さるるを以て一定の善と真とに居る事は出来ない。また純然たる悪に居る事も出来得ないのである。しかし高姫の善と信ずる所、真と思ふ所は、以上述べた如く、皆偽善なる事は言ふまでもない。
 初稚姫は、愛より来る所の大神の神格より帰来する天人の薫陶を、その至粋至純なる霊性に摂受してゐたのである。総て高天原を成就する者は、何れも愛と仁とによらぬ者はない。故に初稚姫の人格そのものは所謂高天原の移写であり、大神の縮図である。故にその美はしき事は到底言語に絶し、形容すべからざる底のものである。その面貌言語乃至一挙手一投足の中にも、悉く愛善の徳を表はし、信真の光を現じ給ふのである。故に初稚姫の如き地上の天人より溢れ出づる円満具足の相は、愛そのものによつて充されてあるが故に、何人と雖も、姫の前に来り、姫の教を受け、その善言美詞に接し、席を交へ交際する時は、衷心よりして自然に動かさるるに至るのである。されども悲しいかな、高姫は普通の人間と異なり、天国、地獄の両界の中に介在する所の中有界に身をおきながら、尚も肉体的精霊即ち兇党界、妖魅界に和合せるがために、初稚姫の前に出づる時は、忽ち癲狂となり痴呆となり、その美貌を見る時は、何処ともなく直に恐怖心を起し、且嫉妬し、善言美詞に接すれば、忽ち頭痛み、胸つかへ、嫌忌の情を起すに至るを以て、如何に初稚姫が神力を尽し、愛と善と真を以てこれに対し、あくまでも和合せむとすれども、これを畏れて受入れないのみならず、陰に陽に排斥し、且滅尽せしめむことを望むのである。しかしてある時は初稚姫を非常に尊敬する時もあるのである。実に名状すべからざる不可思議なる状態に身を置いてゐるものといふべきである。
 かくの如く時々刻々にその思想感情の、姫に対してのみならず、一般の人に対して変転するは、彼れが自ら称ふるヘグレのヘグレのヘグレ武者たる珍思怪想を遺憾なく暴露してゐるのである。しかして高姫はヘグレのヘグレのヘグレ武者を以て唯一の善となし、徳となし、愛の極致となし、信の真と確信してゐるのである。高姫の思想は神出鬼没、動揺常なく、機に臨み変に応じて神業に参加する事を以て、最第一の良法と確信してゐるのだから、如何なる愛を以てするも、信を以て説くも、これを感化する事が出来ない、精神的の不治の難病者である。
 総て人間各自の生命に属する所の霊的円相なるものがあつて、この円相は一切の天人や一切の精霊より発し来り、人間各自の身体を囲繞してゐるものである。各人の情動的生涯、従つて思索的生涯の中より溢れ出づるものである。情動的生涯とは愛的生涯の事であり、思索的生涯とは信仰的生涯の事である。総て天人なるものは愛によつてその生命を保つが故に、愛そのものは天人の全体であり、且天人は善徳の全部であると云つてもいいのである。愛の善と信の真との権化たるべき初稚姫は、その霊的円相は益々円満具足して、智慧証覚の目より見る時は、その全身の周囲より五色の霊光が常住不断に放射しつつあるのである。これに反して、高姫はすべて虚偽と世間愛的悪に居るを以て、霊的円相即ち霊衣は殆ど絶滅し、灰色の雲の如き三角形の霊衣が僅かにその肉身を囲繞してゐるに過ぎない。これを神界にては霊的死者と名付けてゐる。霊的円相の具足せる神人には、如何なる兇霊も罪悪も近寄ることは出来ない。もし強ひて接近せむとすれば、その光に打たれ眼眩み、四肢五体戦慄し、殆ど瀕死の状態に陥るものである。これに反して円相の欠除せる高姫の身辺には、一切の兇霊が臭きものに蠅が群がる如く、容易に且喜んで集合するものである。現界の愚眛なる人間は、かくの如き悪霊の旅宿否駐屯所たる人間を見て、信仰強き真人と看做し、或はその妖言に誑惑されて、虚偽を真となし、悪を善と認め、随喜渇仰しておかざるものである。実にかかる人間は、神の目より見ては精神上の不具者であり、且地獄の門戸を競うて開かむとする妖怪変化と見得るものである。
 人間はその愛の善悪の如何によつて、その面を向ける所を各異にしてゐる。初稚姫の如き天人は、大神及隣人に対して、真の愛を持つてゐるが故に常にその面は大神に向つてゐる。故に何となく威厳備はり、且形容し難き美貌を保つ事を得たのである。また高姫は自愛の心即ち愛の悪強きが故に、その面を常に神に背け、暗黒の中に呻吟しながら思ふやう……かくの如き暗黒無明の世界を、吾々は看過するに忍びない。故に自分はこの暗黒時代に処し、天下万民救済のために、いろいろ雑多に身を変じ、ヘグレ武者となつて、天の岩戸を開き、真の光明に世界を照らし、万民を助けねばならない。天国も浄土もなく、すべて三界は暗黒界と化し去れり。故に吾は神の命を受けて、常暗の世を日の出の御代に捻ぢ戻さねばおかないと、兇霊の言に誤られて蠢動してゐるのである。それ故常に心中に安心する事なく、如何にして自己の向上をなさむか、三界の万霊を救はむかと、狂熱的に蠢動するのである。何ぞ知らむ、開闢の始めより天界の光明は赫灼として輝き給ひ、数多の天人は各団体に住して、その光輝ある生涯を送りつつある事を。しかし茲に一言注意すべき事は、大本開祖の神諭に……この世は暗雲になつてゐるから、日の出の守護に致すがために因縁の身魂が表はれて、五六七成就の御用に尽す……とあるのは、これは決して高姫の言ふ如く三界皆暗しといふ意義ではない。大神より地獄道に陥れるこの現界をして、天国浄土の楽土となし、一人も地獄界に堕さざらしめむがためである。要するに霊界現界を問はず、地獄なるものを一切亡ぼし、その痕跡をも留めざらしめむと計らせ給ふ仁慈の大御心より出でさせ給うたのである。しからば人或は云はむ、三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ……とあるではないか、三千世界とは天界、現界、地獄界のことである。天界は已に光明赫々として無限に開け居るにも拘らず、何をもつて三千世界と言はるるか、果してこの言を信ずるならば、天界もまた暗黒界と堕落せるものなりと断定せざるを得ないではないかといはねばならぬ……と。かくの如きは其一を知つて其二を知らざる迂愚者の論旨である。三千世界一度に開くといふは、現界も地獄界も天界も一度に……即ち同様に光明赫々たる至喜至楽の楽園となし、中有界だの、地獄界だの、天界だの、或は兇霊界だのいふ、いまはしき区別を取除き、打つて一丸となし、一個の人体におけるが如く、単元として統治し給はむがための御神策を示されたるものたることを悟るべきである。一度に開く梅の花とか、須弥仙山に腰をかけとか云ふ聖言は、要するに神に向はしむるといふ意義である。如何なる無風流な人間でも、梅の花の咲きみち、馥郁たる香気を放つを見れば、喜んでこれに接吻せむとするは、人間に特有の情である。また須弥仙山とは宇宙唯一の至聖至美にして崇高雄大なる山の意味である。何人と雖も、雲表に屹立せる富士の姿を見る時は、その雄姿にうたれ、荘厳に憧がれ、これを仰がないものはない。また俯いては決して富士を見る事は出来ない。故に神は所在人間及精霊をしてその雄大崇高なる姿を仰がしめ、以て神格に向上せしめ、神の善に向はしめむがためである。しかし神に向ひ、或は須弥仙山を仰ぐといふは、現界における富士山そのものを望む時の如く、身体の動作によつて向背をなすものでない。何となれば空間の位地はその人間の内分の情態如何によつて定まるが故に、方位の如きも現界とは相違してゐるのは勿論である。人間の内底の現はれなる面貌の如何によつてその方位が定まるのである。故に霊界にては吾面の向ふ所即ち太陽の現はるる所である。現界にては太陽は東に昇りつつある時と雖も、西を向けばその太陽は背に負うてゐるが、霊界にては総て想念の世界なるが故に、身体の動作如何に関せず、神に向つて内底の開けた者は、いつも太陽に向つてゐるのである。しかしながらかくの如き天人の境遇にある人格者は霊界に在つて、自分より大神即ち太陽と現じ給ふ光熱に向ふにあらず、大神より来る所の一切の事物を喜んで実践躬行するが故に、神より自ら向はしめ給ふ事となるのである。平和と智慧と証覚と幸福とを容るるものは高天原の器である。これを称して新宮壺の内といふ。この壺は愛であつて、大小となく神と相和する所のものを容るる器である。現界において、智慧証覚の劣りし者、または愛善の徳薄く、信真の光暗かりし者が、天界の天人または地上の天人やエンゼルと相伍して遂に聖き信仰に入り、愛善の徳を養ひ、信真の光を現はし、遂に智慧証覚を得、高天原の景福を得るに至らしむべく、ここに神は精霊にその神格を充して預言者に来らしめ、地上の高天原即ちエルサレムの宮屋敷において、天国の福音を宣べ伝へさせ給うたのは、実に至仁至愛の大御心に出でさせ給うたからである。善のために善を愛し、真のために真を愛し、これを一生涯深く心に植ゑ付け、実践躬行したるにより、終に罪悪に充ちたる人間も天国に救はれて、その不可説なる微妙の想を悉く摂受し得べき聖場を開かせ給うた。これを神界にては地の高天原と称へられたのである。
 かくも尊き神界の御経綸をも弁へず、かつ信ずること能はずして、自己と世間とのみを愛する者は、仮令膝元に居つてもこれを摂受することは到底出来ない。自己を愛し、世間のみを愛する者は、却て此等の御経綸地を否定し、或はこれを避け、これを拒み、甚しきは神界の経綸場を破壊せむとするに至るものである。されども神は飽くまでも天人の養成器たる人間を愛し給ふが故に、可成く彼等に接近し、彼等の心の中に流入せむとし給へども、彼等は却てこれを恐れ、雲霞と逃去つて、忽ち地獄界に飛び入り、また彼等と相似たる自愛を有する者と相交はらむとするものである。……灯台下暗し、足許から鳥が立つても分らぬ盲聾ばかりであるぞよ。神は一人なりとも助けたさに、いろいろと諭せども、こはがりて皆逃げて帰ぬ者ばかりで、助けやうはないぞよ。神は可哀相なれども、余り人民が欲に呆けて、霊を悪神に曇らされてゐるから、真の事が耳へ入らぬぞよ。神も助けやうがないぞよ……と歎声をもらされてあるは、かかる人間に対して愛憐の涙を注ぎ給うた聖言である。
 初稚姫の御再誕なる大本開祖は、神命を奉じて地の高天原に降り、万民を救はむと焦慮し給ふに引替へ、その肉身より生れ出でたる肉体に正反対のものあるは、実に不可説の深遠微妙なる御神策のおはします事であつて、大本神諭に……吾児に約まらぬ御用がさして善悪の鏡が見せてあるぞよ云々と。信者たる者はこの善悪両方面の実地を観察して、その信仰を誤らないやうにせなくてはならぬのである。ああ惟神霊幸倍坐世。

(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 松村真澄録)



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