出口王仁三郎 文献検索

リンク用URL http://uro.sblog.jp/kensaku/kihshow.php?KAN=48&HEN=1&SYOU=1&T1=&T2=&T3=&T4=&T5=&T6=&T7=&T8=&CD=

原著名出版年月表題作者その他
物語48-1-11923/01舎身活躍亥 聖言王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
詳細情報:
場面:

あらすじ
未入力
名称


 
本文    文字数=19972

第一章 聖言〔一二五五〕

 宇宙には霊界と現界との二つの区界がある。しかして霊界にはまた高天原と根底の国との両方面があり、この両方面の中間に介在する一つの界があつて、これを中有界または精霊界と云ふのである。また現界一名自然界には昼夜の区別があり寒暑の区別があるのは、恰も霊界に天界と地獄界とあるに比すべきものである。人間は霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質即ち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は即ち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は精霊の居宅に過ぎないのである。この原理を霊主体従といふのである。霊なるものは神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。しかして人間には一方に愛信の想念あると共に、一方には身体を発育し現実界に生き働くべき体欲がある。この体欲は所謂愛より来るのである。しかし体に対する愛はこれを自愛といふ。神より直接に来る所の愛はこれを神愛といひ、神を愛し万物を愛する、所謂普遍愛である。また自愛は自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであつて、これを自利心といふのである。人間は肉体のある限り、自愛もまた必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に遡り、どこまでも真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。要するに人間は霊界より見れば即ち精霊であつて、この精霊なるものは善悪両方面を抱持してゐる。故に人間は霊的動物なると共にまた体的動物である。精霊は或は向上して天人となり、或は堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかして大抵の人間は神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。しかして精霊の善なるものを正守護神といひ、悪なるものを副守護神と云ふ。正守護神は神格の直接内流を受け、人身を機関として天国の目的即ち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊即ち副守護神に圧倒され、彼が頤使に甘んずる如き卑怯なる精霊となる時は、精霊自らも地獄界へ共々におとされてしまふのである。この時は殆ど善の精霊は悪霊に併合され、副守護神のみ我物顔に跋扈跳梁するに至るものである。そしてこの悪霊は自然界における自愛の最も強きもの即ち外部より入り来る諸々の悪と虚偽によつて、形作られるものである。かくの如き悪霊に心身を占領された者を称して、体主霊従の人間といふのである。また善霊も悪霊も皆これを一括して精霊といふ。現代の人間は百人が殆ど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、何れも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼等は霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度を以て、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。甚だしきは体主体従的研究に堕して居るものが多い。何れも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、所謂天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲共のことである。
 すべて宇宙には霊界、現界の区別ある以上は、到底一方のみにてその真相を知ることは出来ない。自然界の理法に基く所謂科学的知識を以て、無限絶体無始無終、不可知不可測の霊界の真相を探らむとするは、実に迂愚癲狂も甚しといはねばならぬ。先づ現代の学者はその頭脳の改造をなし、霊的事物の存在を少しなりとも認め、神の直接内流によつて真の善を知り、真の真を覚るべき糸口を捕捉せなくては、黄河百年の河清をまつやうなものである。今日の如き学者の態度にては、仮令幾百万年努力するとも、到底その目的は達することを得ないのである。夏の虫が冬の雪を信ぜない如く、今日の学者はその智暗くその識浅く、且驕慢にして自尊心強く、何事も自己の知識を以て、宇宙一切の解決がつくやうに、否殆どついたもののやうに思つてゐるから、実にお目出度いといはねばならぬのである。天体の運行や大地の自転運動や、月の循行、寒熱の原理等に就いても、未だ一としてその真を得たものは見当らない。徹頭徹尾、矛盾と撞着と、昏迷惑乱とに充たされ、暗黒無明の域に彷徨し、太陽の光明に反き、僅かに陰府の鬼火の影を認めて、大発明でもしたやうに騒ぎまはつてゐるその浅ましさ、少しでも証覚の開けたものの目より見る時は、実に妖怪変化の夜行する如き状態である。現実界の尺度はすべて計算的知識によつてそのある程度までは考察し得られるであらう。しかし何程数学の大博士と雖も、その究極する所は、到底割り切れないのである。例へば十を三分し、順を追うて、追々細分し行く時は、その究極する所は、ヤハリ細微なる一といふものが残る。この一は何程鯱矛立になつて研究しても到底能はざる所である。自然界にあつて自然的事物即ち科学的研究をどこまで進めても、解決がつかないやうな愚鈍な暗冥な知識を以て、焉んぞ霊界の消息門内に一歩たりとも踏み入ることが出来ようか。口述者が霊界より大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流によつて、暗迷愚昧なる現界人に対し、霊界の消息を洩らすのは、何だか豚に真珠を与ふるやうな心持がする。かく言へば瑞月は癲狂者或は誇大妄想狂として、一笑に附するであらう。しかしながら自分の目より見れば、現代の学者位始末の悪い、分らずやはないと思ふ。プラス、マイナスを唯一の武器として、絣や金米糖を描き、現界の研究さへも未だその門戸に達してゐない自称学者が、霊界のことに嘴を容れて審神者をしようとするのだから、実に滑稽である。故にこの『霊界物語』もこれを読む人々の智慧証覚の度合の如何によつて、その神霊の感応に応ずる程度に、幾多の差等が生ずるのは已むを得ないのである。
 宇宙の真理は開闢の始めより、億兆万年の末に至るも、決して微塵の変化もないものである。しかしながらこれに相対する人間の智慧証覚の賢愚の度によつて、種々雑多に映ずるのであつて、つまりその変化は真理そのものにあらずして、人間の知識そのものにあることを知らねばならぬのである。もし現代の人間が大神の直接統治し給ふ天界の団体に籍をおき、天人の列に加はることを得たならば、現代の学者の如く無性矢鱈に頭脳を悩まし、心臓を痛め肺臓を破り、神経衰弱を来さなくても、容易に明瞭に宇宙の組織紋理が判知さるるのである。
 憎まれ口はここらでお預かりとして、改めて本題に移ることとする。茲に霊界に通ずる唯一の方法として、鎮魂帰神なる神術がある。しかして人間の精霊が直接大元神即ち主の神(または大神といふ)に向つて神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、我精霊の本源なる大神の御神格に帰一和合するの謂である。故に帰神は大神の直接内流を受くるによつて、予言者として最も必要なる霊界真相の伝達者である。
 次に大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来り、神界の消息を人間界に伝達するのを神懸といふ。またこれを神格の間接内流とも云ふ。これもまた予言者を求めてその精霊を充たし、神界の消息をある程度まで人間界に伝達するものである。
 次に、外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふ所の邪霊がある。これを悪霊または副守護神といふ。この情態を称して神憑といふ。
 すべての偽予言者、贋救世主などは、この副守の囁きを人間の精霊自ら深く信じ、且憑霊自身も貴き神と信じ、その説き教へる所もまた神の言葉と、自ら自らを信じてゐるものである。すべてかくの如き神憑は自愛と世間愛より来る凶霊であつて、世人を迷はしかつ大神の神格を毀損すること最も甚しきものである。かくの如き神憑はすべて地獄の団体に籍をおき、現界の人間をして、その善霊を亡ぼし且肉体をも亡ぼさむことを謀るものである。近来天眼通とか千里眼とか、或は交霊術の達人とか称する者は、何れもこの地獄界に籍をおける副守護神の所為である。泰西諸国においては今日漸く、現界以外に霊界の在ることを、霊媒を通じて稍覚り始めたやうであるが、しかしこの研究は余程進んだ者でも、精霊界へ一歩踏み入れた位な程度のもので、到底天国の消息は夢想だにも窺ひ得ざる所である。偶には最下層天国の一部の光明を遠方の方から眺めて、臆測を下した霊媒者も少しは現はれてゐるやうである。霊界の真相を充分とは行かずとも、相当に究めた上でなくては、妄りにこれを人間界に伝達するのは却て頑迷無智なる人間をして、益々疑惑の念を増さしむるやうなものである。故に霊界の研究者は最も霊媒の平素の人格に就てよく研究をめぐらし、その心性を十二分に探査した上でなくては、好奇心にかられて、不真面目な研究をするやうな事では、学者自身が中有界は愚か、地獄道に陥落するに至ることは想念の情動上已むを得ない所である。
 さて帰神も神懸も神憑も概括して神がかりと称へてゐるが、その間に非常の尊卑の径庭ある事を覚らねばならぬのである。大本開祖の帰神情態を口述者は前後二十年間、側に在つて伺ひ奉つたことがある。開祖は何時も神様が前額より肉体にお這入りになると云はれて、いつも前額部を右手の拇指で撫でてゐられたことがある。前額部は高天原の最高部に相応する至聖所であつて、大神の御神格の直接内流は必ず前額より始まり、遂に顔面全部に及ぶものである。しかして人の前額は愛善に相応し、顔面は神格の内分一切に相応するものである。畏多くも口述者が開祖を審神者として永年間、茲に注目し、遂に大神の聖霊に充たされ給ふ地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである。
 それからまた高天原には霊国、天国の二大区別があつて、霊国に住める天人はこれを説明の便宜上霊的天人といひ、天国に住める天人を天的天人といふことにして説明を加へようと思ふ。乃ち霊的天人より来る内流(間接内流)は人間肉体の各方面より感じ来り、遂にその頭脳の中に流入するものである。即ち前額及び顳顬より大脳の所在全部に至るまでを集合点とする。この局部は霊国の智慧に相応するが故である。また天的天人よりの内流(間接内流)は頭中小脳の所在なる後脳といふ局部即ち耳より始まつて頸部全体にまで至る所より流入するものである、即ちこの局部は証覚に相応するが故である。
 以上の天人が人間と言葉を交へる時に当り、その言ふ所はかくの如くにして、人間の想念中に入り来るものである。すべて天人と語り合ふ者は、また高天原の光によつて其処にある事物を見ることを得るものである。そはその人の内分(霊覚)はこの光の中に包まれてゐるからである。しかして天人はこの人の内分を通じて、また地上の事物を見ることを得るのである。即ち天人は人間の内分によつて、現実界を見、人間は天界の光に包まれて、天界に在るすべての事物を見ることが出来る。天界の天人は人間の内分によつて世間の事物と和合し、世間はまた天界と和合するに至るものである。これを現幽一致、霊肉不二、明暗一体といふのである。
 大神が予言者と物語り給ふ時は、太古即ち神代の人間におけるが如く、その内分に流入してこれと語り給ふことはない。大神は先づおのが化相を以て精霊を充たし、この充たされた精霊を予言者の体に遣はし給ふのである。故にこの精霊は大神の霊徳に充ちてその言葉を予言者に伝ふるものである。かくの如き場合は、神格の流入ではなくて伝達といふべきものである。伝達とは霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為を云ふのである。
 しかして此等の言葉は大神より直接に出で来れる聖言なるを以て、一々万々確乎不易にして、神格にて充たされてゐるものである。しかしてその聖言の裡には何れも皆内義なるものを含んでゐる。しかして天界に在る天人はこの内義を知悉するには霊的及び天的意義を以てするが故に、直にその神意を了解し得れども、人間は何事も自然的、科学的意義に従つてその聖言を解釈せむとするが故に、懐疑心を増すばかりで到底満足な解決は付け得ないのである。茲においてか大神は、天界と世界即ち現幽一致の目的を達成し、神人和合の境に立到らしめむとして、瑞霊を世に降し、直接の予言者が伝達したる聖言を詳細に解説せしめ、現界人を教へ導かむとなし給うたのである。
 精霊は如何にして化相によつて大神より来る神格の充たす所となるかは、今述べた所を見て、明かに知らるるであらう。大神の御神格に充たされたる精霊は、自分が大神なることを信じ、またその所言の神格より出づることを知るのみにして、その他は一切知らない。しかしてその精霊は言ふべき所を言ひ尽すまでは、自分は大神であり、自分の言ふことは大神の言であると固く信じ切つてゐるけれども、一旦その使命を果すに至れば、大神は天に復り給ふが故に俄にその神格は劣り、その所言は余程明晰を欠くが故に、そこに至つて、自分はヤツパリ精霊であつたこと、また自分の所言は大神より言はしめ給うた事を知覚し、承認するに至るものである。大本開祖の如きは始めより大神の直接内流によつて、神の意思を伝へ居ること及び自分の精霊が神格に充たされて、万民のために伝達の役を勤めてゐたことをよく承認してゐられたのである。その証拠は『大本神諭』の各所に明確に記されてある。今更ここに引用するの煩を省いておくから、開祖の『神諭』に就いて研究さるればこの間の消息は明かになることと信ずる。
 開祖に直接帰神し給うたのは大元神大国治立尊様で、その精霊は、稚姫君命と国武彦命であつた。故に『神諭』の各所に……この世の先祖の大神が国武彦命と現はれて……とかまたは……稚姫君の身魂と一つになりて、三千世界(現幽神三界)の一切の事を、世界の人民に知らすぞよ……と現はれてゐるのは、所謂精霊界なる国武彦命、稚姫君命の精霊を充たして、予言者の身魂即ち天界に籍をおかせられた、地上の天人なる開祖に来つて、聖言を垂れさせ給うことを覚り得るのである。
 前巻にもいつた通り、天人は現界人の数百言を費さねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、僅かに一二言にてその意味を通達し得るものである。故に開祖即ち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直にその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それ故にその聖言を細かく説いて世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来り、その手を通じ、その口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめむために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。故に開祖の『神諭』をそのまま真解し得らるる者は、已に天人の団体に籍をおける精霊であり、また中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明によつて、間接諒解を得なくてはならぬのである。しかしてこの詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差挟み、研究的態度に出でむとする者は、所謂暗愚無智の徒にして、学で知慧の出来た途中の鼻高、似而非学者の徒である。かくの如き人間は已に已に地獄界に籍をおいてゐる者なることは、相応の理によつて明かである、かくの如き人は容易に済度し難きものである。何故ならば、その人間の内分は全く閉塞して、上方に向つて閉ぢ、外分のみ開け、その想念は神を背にし、脚底の地獄にのみ向つてゐるからである。しかしてその知識はくらみ霊的聴覚は鈍り、霊的視覚は眩み、如何なる光明も如何なる音響も容易にその内分に到達せないからである。されど神は至仁至愛にましませば、かくの如き難物をも、種々に身を変じ給ひて、その地獄的精霊を救はむと、昼夜御心を悩ませ給ひつつあるのである。あゝ惟神霊幸倍坐世。

(大正一二・一・一二 旧一一・一一・二六 松村真澄録)



オニドでるび付原文を読む    オニド霊界物語Web