出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語47-3-211923/01舎身活躍戌 跋文王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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本文    文字数=10205

第二一章 跋文〔一二五四〕

   その一

一、現代人は霊界一切の事物と、人間一切の事物との間に一種の相応あることを知らず、また相応の何たるを知るものがない。かかる無智の原因には種々あれども、その重なるものは『我』と世間とに執着して自ら霊界殊に天界より遠ざかれるに由るものである。何事をも差し置きて吾と世間とを愛するものはただ外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむる所の世間的事物にのみ留意して、曽てその外を顧みず、即ち内的感覚を楽まし心霊を喜ばしむる所の霊的事物に至つては彼等の関心せざる所である。彼等がこれを斥くる口実に曰く、『霊的事物は余り高きに過ぎて思想の対境となる能はず』云々。されど古の人なる宣伝使や信者たりしものは、これに反して相応に関する知識を以て一切知識中の最も重要なるものとなし、これに由りて智慧と証覚を得たものである。故に三五教の信者は何れも天界との交通の途を開きて相応の理を知得し、天人の知識を得たものである。即ち天的人間であつた太古の人民は相応の理に基いて思索する事尚天人の如くであつた。これ故に古の人は天人と相語るを得たり、また屡主神をも相見るを得て、その教を直接に受けたものも沢山にある。三五教の宣伝使なぞは主の神の直接の教を受けてその心魂を研き、これを天下に宣伝したる次第はこの霊界物語を見るも明白である。現代の宣伝使に至つてはこの知識全く絶滅し、相応の理の何たるかを知るものは宗教各団体を通じて一人も無いと謂つてもいい位である。相応の何たるかを知らずしては、霊界に就いて明白なる知識を有するを得ない。かく霊界の事物に無智なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知る事は出来ない。また霊的事物の自然的事物に対する関係をすら知る事が出来ない。また霊魂と称する人間の心霊がその身体に及ぼす所の活動や、死後における人間の情態に関して毫も明白なる思想を有する事能はず、故に今何をか相応と云ひ、如何なるものを相応となすかを説く必要があると思ふ。
 抑全自然界はこれを総体の上から見ても、分体の上から見ても、悉く霊界と相応がある。故に何事たりとも自然界にあつてその存在の源泉を霊界に取るものはこれを名づけて、その相応者と云ふのである。そして自然界の存在し永続する所以は霊界によること、猶結果が有力因によりて存するが如きを知るべきである。自然界とは太陽の下にありてこれより熱と光とを受くる一切の事物を謂ふものなるが故に、これに由りて存在を継続するものは、一として自然界に属せないものはない。されど霊界とは天界のことであり、霊界に属するものは、皆天界にあるものである。人間は一小天界にしてまた一小世界である。しかして共にその至大なるものの形式を模して成るが故に、人間の中に自然界もあり霊界もあるのである。その心性に属して、智と意とに関する内分は霊界を作り、その肉体に属して感覚と動作とに関する外分は自然界を作すのである。故に自然界に在るもの即ち彼の肉体及びその感覚と動作とに属するものにして、その存在の源泉を彼が霊界に有する時は、即ち彼が心性及びその智力と意力とより起り来る時は、これを名づけて相応者と謂ふのである。三五教の宣伝使にして以上相応の真理を知悉せざりしものはただの一人も無かつたのは、実に主の神の神格を充分に認識し得たためであります。願はくはこの物語に心を潜めて神の大御心のある所を会得しかつ相応の真理を覚り、現界においては万民を善道に救ひ、死後は必ず天界に上り天人の班に相伍して神業に参加せられむことを希望いたします。

   その二

一、主神の国土は目的の国土である。目的とは用そのものである。故に主神の国土を称して用の国土と云うてもかなる訳である。用これ目的である。故に主神は神格の始めに宇宙を創造し、形成し給ふや、初めは天界においてなし給ひ、次は世界において到る処、動作の上即ち結果の上に用を発揮せむとし給うた。種々の度を経、次第を逐うて自然界の終局点にまでも至らなければ已まない。故に自然界事物と霊界事物即ち世間と天界の相応は用に由つて成就することを知り得るのである。この両者を和合せしむるものは即ち用である。そしてこの用を中に収むる所のものは形体である。この形体を相応となす即ち和合の媒介である。されどその形態にして没交渉なる時は此の如きことなきを知るべしである。自然界にありてその三重の国土中順序に従つて存在するものは、すべて用を収めたる形態である。即ち用のため用に由つて作られたる結果である。故にかくの如き自然界中の諸物は皆相応者である。されど人間にあつては神の法則に従つて生活する限り、即ち主神に対して愛、隣人に対して仁ある限り、かれの行動は用の形態に現はれたものである。これ天界と和合する所の相応である。主神と隣人を愛するといふのは要するに用を遂ぐることである。人間なるものは自然界をして霊界に和合せしむる方便即ち和合の媒介者なることである。蓋し人間には自然界と霊界と二つのものは具はつて居るものである。人間はその霊的なることにおいて和合の媒介者となるけれども、もししからずして自然的となればこの事あるを得ないのである。さはいへ神格の内流は人間の媒介を経ずとも、絶えず世間に流れ入り、また人間内の世間的事物にも流れ入るものである。但しその理性的には入らぬものである。
 凡て神の法則に従ふものは悉く天界に相応すれども、これと反するものは皆地獄と相応するものである。天界に相応するものは皆善と真とに関係があるが、地獄と相応するものは偽りと罪悪に交渉せないものは無いのである。
 霊界は諸々の相応に由つて自然界と和合するが故に、人は諸々の相応によつて天界と交通することを得るものである。在天の天人は人間の如く自然的事物によつて思索せない。人間にして、もし諸相応の知識に住する時は、その心の上にある思想より見て、天人と相伍するものとなすべく、かくしてその霊的、内的人格において天人と和合せるものである。
 地上における最太古の人間は即ち天的人間であつて、相応そのものに由つて思索し彼等の眼前に横たはれる世間の自然的事物は、彼等天的人間が思索をなす所の方便に過ぎなかつたのである。太古の人間は天人と互に相交はり相語り、天界と世間との和合は彼等を通して成就したのである。これの時代を黄金時代と謂ふのである。次に天界の住民は地上の人間と共に居り人間と交はること朋侶の如くであつた。されど最早この時代の人間は相応そのものより思索せずして、相応の知識よりせるに由つて、尚天と人との和合はあつたけれども、以前のやうには親密でなかつた。この時代を白銀時代と曰ふ。またこの白銀時代を継いだものは相応は知らぬにはあらざれども、その思索は相応の知識に由らなかつた。故に彼等がをる所の善徳なるものは自然的のものであつて、前時代の人の如く霊的たることを得なかつた。これを赤銅時代と曰つたのである。この時代以後は人間は次第々々に外的となり、遂に肉体的となり了へ、従つて相応の知識なるもの全く地に墜ちて天界の知識悉く亡び、霊界に関する数多の事項も追々と会得し難くなつたのである。また黄金は相応に由つて天国の善を表はし、最太古の人の居りし境遇である。また白銀は霊国の善を表はし中古の人の居りし境遇であつた。赤銅は自然界の善を表はし古の人の居りし境遇である。更に下つて、黒鉄時代を現出した。黒鉄なるものは冷酷なる真を表はし、善はこれに居らない時代である。これを思ふに現今の時代は全く黒鉄時代を過ぎて泥土世界と堕落し、善も真もその影を没してしまつた暗黒無明の地獄である。国祖の神はかくの如き惨澹たる世界をして松の代、三五の代、天国の代に復活せしめむとして不断的愛善と信真のために御活動を遊ばし給ひつつあることを思へば、吾々は安閑としてこの現代を看過することは出来ないのである。天下国家を憂ふるの士は、一日も早く神の教に眼を醒まし、善のために善を励み、真のために真を光して、空前絶後の大神業に参加されむことを希望する次第であります。
 あゝ惟神霊幸倍坐世
(因にここに主神とあるは、太元神を指したのであります)

(大正一二・一・一〇 旧一一・一一・二四 加藤明子録)



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