出口王仁三郎 文献検索

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物語47-3-201923/01舎身活躍戌 間接内流王仁三郎参照文献検索
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第二〇章 間接内流〔一二五三〕

 高天原の天界を区分して天国、霊国の二となす事は前に述べた通りである。概して云へば日の国即ち天国は人身に譬ふれば心臓及び全身にして心臓に属すべき、一切のものと相応して居る。また月の国即ち霊国はその肺臓及び全身にして肺臓に属すべき一切の諸機関と相応してゐる。さうして心臓と肺臓とは小宇宙、小天地に譬ふべき人間における二つの国土である。心臓は動脈、静脈により、肺臓は神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発する所、動作する所、必ずや右両者の協力を認めずと云ふ事はない。各人の内分、即ち人の霊的人格をなせる霊界の中にもまた二国土があつて、一を意思の国と云ひ一を智性の国と云ふ。意思は善に対する情動より、智性は真に対する情動によつて人身内分の二国土を統治してゐるのである。之等の二国土はまた肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応してゐる。故に心臓は天国であり意思の国に相応し、肺臓は霊国であり智性の国と相応するものである。
 高天原においてもまた以上の如き相応がある。天国は即ち高天原の意力にして、愛の徳これを統御し、霊国は高天原の智力にして信の徳これを統御する事になつてゐる。故に天国と霊国との関係は人における心臓と肺臓との関係に全く相応してゐるものである。聖言に心臓を以て意を示し、また愛の徳を示し、肺臓の呼吸を以て智及信の真を示すはこの相応によるからである。また情動なるものは心臓中にもあらず、心臓より来らざれども、これを心臓に帰するは相応の理に基くためである。高天原の以上二国土と心臓及肺臓との相応は高天原と人間との間における一般的相応である。さうして人身の各肢体及各機関及内臓等に対しては、かくの如く一般的ならざる相応があるのである。
 今茲に高天原の全体を巨人に譬へて説明する事としよう。
 巨人即ち天界の頭部に居るものは愛、平和、無垢、証覚、智慧の中に住し、従つて歓喜と幸福とに住するを以て天界到る所、この頭部における善徳に比すべきものはない。人間の頭部及び頭部に属する一切のものにその神徳流れ入つてこれと相応するのである。故に人の頭部は高天原の最高の天国、霊国に比すべきものである。
 次に巨人即ち天界の胸部にあるものは仁と信との善徳中に住して、人の胸部に流れ入り、これと相応するものである。
一、巨人即ち天界における腰部及生殖器機関に属するものは、所謂夫婦の愛に住してゐる、これは第二天国の状態である。
一、脚部にあるものは、天界最劣の徳即ち自然的及霊的善徳の中に住してゐる。
一、腕と手とにあるものは、善徳の中より出で来る真理の力に住してゐる。
一、目にあるものは智に住し、耳にあるものは注意と従順に住し、鼻口に属するものは知覚に住してゐる。また、口と舌とに属するものは智性と知覚とより出づる言語の中に住し、内腎に属するものは研究し調査し分析し訂正する処の諸々の真理に住し、肝臓、膵臓、脾臓に属するものは善と真と色々に洗練するに長じてゐる。何れも神の神格は人体中に相似せる各局部に流入してこれと相応し給ふ。天界よりの内流は諸肢体の働き及用の中に入り、しかして具体的結果を現ずるが故に、茲においてか相応なるものが行はれて来るものである。
一、人は智あり覚ある者を呼んで彼は頭を持つて居るとか、頭脳が緻密であるとか、よい頭だとか云つて称へ、また仁に厚いものを呼んで彼は胸の友だとか、心が美しいとか、気のよい人だとか、心意気がよいとか称へ、知覚に勝れた人を呼んで彼は鋭敏なる嗅覚を持つてゐるとか、鼻が高いとか云ひ、智慮に秀でたものを呼んで、彼の視覚は鋭いと云ひ、或は鬼の目と云ひ、強力なる人を呼んで、彼は手が長いと云ひ、或は利くと云ひ、愛と心を基として志す所を決するものを呼んで、彼の行動は心臓より出づるとか、心底から来るとか、同情心が深いとか称へるのである。
 かくの如く人間の不用意の中に使ふ言葉や諺は尚この外に何程とも限りないほどあるのは、相応の理に基いてその実は厳の御霊の神示にある通り、何事も神界よりのお言葉なる事は自覚し得らるるのである。
 治国別一行は人体における心臓部に相当する第二天国の最も中枢部たる処を今や巡覧の最中である。さうして天国の組織は最高天国が上中下三段に区画され、中間天国がまた上中下三段に区画され、最下層の天国また三段に区画されてある。各段の天国は個々の団体を以て構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合の如何によりて幾百ともなく個々分立し、到底これを明瞭に計算する事は出来ないのである。また霊国も同様に区画され、信と智の善徳や智慧証覚の度合によつて霊国が三段に大別され、また個々分立して数へ尽せないほどの団体が作られてゐる。さうしてまた一個の団体の中にも愛と信と智慧証覚の度の如何によつて或は中央に座を占め、或は外辺に居を占め、決して一様ではない。かくの如く天人の愛信と証覚の上に変移あるは、所謂勝者は劣者を導き、劣者は勝者に従ふ天然律が惟神的に出来てゐるがために、各人皆その分度に応じて安んじ、少しも不安や怨恨や不満足等の起る事なく、極めて平和の生涯を送り居るものである。
 さて三人は、とある美はしき丘陵の上に着いた。天日晃々として輝き渡り、被面布を通してその霊光は厳しく放射し、治国別は殆ど目も眩むばかりになつて来た。竜公も稍身体の各部に苦悶を兆して来た。五三公は依然として被面布も被らず此処まで進んで来たのである。
五三『皆さま、大変に御疲労のやうですから、此処で山野の景色を眺めて、しばらく休養さして頂きませうか』
治国『ハイ、さう致しませう。何だか神様の霊光にうたれて苦しくなつて参りました』
竜公『ヤア私も何となしに苦痛を感じます。ラジオシンターでもあれば、一杯飲みたいものですな』
『ハヽヽヽヽ、ラジオシンターは貴方等のやうな壮健な肉体の飲むものぢやありませぬ。あの薬は人体の組織を害しますからな。しかしながら九死一生の病人には、とつたか、みたかですからよいでせう。あの薬は霊国より地上に下る霊薬であつて、これを服用すれば未だ現界に生きて働くべき人間は速かに元気恢復し、また霊界に来るべき運命にある人間が服用すれば、断末魔の苦痛を逃れ、楽々と霊肉脱離の苦しみを助くるものです。さうだから、あれは霊薬と云つて霊国から下るものです』
竜公『霊体分離の時、地獄におつる精霊は虚空を掴み泡を吹き、或は暗黒色になり、非常な苦悶をするものですが、そのやうな精霊でも矢張り楽に霊肉脱離の難境を越えられますか』
『さうです。地獄へ直接落下すべき悪霊はこの霊薬の力によつて肉体より逸早く逃走するが故に、後には善霊即ち正守護神のみが残り、安々と脱離の境を渡り得るのです。霊国においてはこれを以て霊丹と云ふ薬を作ります。治国別様や貴方が、第二天国の入口において木花姫命よりお頂きになつた霊薬は即ちそれです。霊に充ちてゐる薬だから、霊充と云ふのです。これを地上の人間は、ラヂウムと称へて居るのですが、語源は、つまり一つですからな』
治国『ラジオシンターは止めにして、それならもう一度霊丹が頂きたいものですな』
『先生、自分の苦痛を薬によつて治さうなどと云ふ想念が起りますと、神様のお道に対し所謂冷淡(霊丹)になりやしませぬか。それよりも天国は愛の熱によつて充たされてゐるのですから、大神直接の内流たる愛の熱を頂くやうに願つたらどうでせう。私は最早霊丹の必要もないやうに思ひますが……』
『さうだな、一か八かの時に用ふる霊薬だから、さう濫用するのは勿体ない。それよりも尊い神様の愛の熱を頂く事に致しませう。あゝ惟神霊幸倍坐世』
『治国別さま、どうです、もうお疲れは直りましたか』
『ハイ、御神徳によつて、甦つたやうです』
竜公『それ御覧、惟神霊幸倍坐世と今おつしやつたでせう。その御神文の方が霊充よりも、霊丹よりも効能が顕著でせう』
『ハイ、有難うございました』
 大神はかくの如くにして第三者の口をかり、第二者たる治国別に諸々の真理を悟させ給うたのである。
 凡て人を教ふる身は、その人直接に云つては聞かないものである。人間と云ふものは自尊心や自負心が強いものであるから、直接その人間に対して教説らしき事を云へば、その人間は「ヘンその位の事はお前に聞かなくとも俺は知つてゐる。馬鹿々々しい」と、テンデ耳に入れぬものである。故に第二者に直接教説すべき所を第三者たる傍人に問答を発し、その第三者の口より談話的に話さしめてこれを第二者の耳に知覚に流入せしむる方が余程効験のあるものである。故に神界においても時々第一者と第三者が問答をなし、是非聞かしてやらねばならぬ第二者に対して間接に教示を垂れ給ふ事が往々あるのである。今茲に大神は五三公、竜公の両人をして問答をなさしめ、治国別の心霊に耳を通して諭さしめたのである。
『先生、大変な立派な日輪様がお上りになりましたな。吾々の日々拝する日輪様とは非常にお姿も大きく光も強いぢやありませぬか』
『さうだなア、吾々の現界で見る日輪様は、人間の邪気がこつて中空にさまようてゐるから、そのために御光が薄らいで居るのだらう。天国へ来ると清浄無垢だから、日輪様も立派に拝めるのだらうよ』
『それでも吾々の拝む日輪様とは何だか様子が違ふぢやありませぬか。もし五三公さま、どうでせう』
『天国においては大神様が日輪様となつて現はれ給ひます。地上の現界において見る太陽は所謂自然界の太陽であつて、天国の太陽に比ぶれば非常に暗いものですよ。自然界の太陽より来るものは凡て自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来る光は愛善の光ですから雲泥の相違がありますよ。また霊国においては大神様は月様とお現はれになります。大神様に変りはなけれども、天人共の愛と信と証覚の如何によつて、或は太陽と現はれ給ひ或は月と現はれ給ふのです』
竜公『やはり天国にても日輪様は東からお上りになるのでせうな』
『地上の世界においては日輪様が上りきられた最も高い処を南と云ひ、正にこれに反して地下にある所を北となし、日輪様が昼夜の平分線に上る所を東となし、その没する所を西となす事は貴方等の御存じの通りです。かくの如く現界においては一切の方位を南から定めますけれども、高天原においては大神様が日輪様と現はれ給ふ処を東となし、これに対するを西となし、それから高天原の右の方を南となし、左の方を北とするのです。さうして天界の天人は何れの処にその顔と体躯とを転向するとも、皆日月に向つて居るのです。その日月に向うた処を東と云ふのです。故に高天原の方位は皆東より定まります。何故なれば、一切のものの生命の源泉は、日輪様たる大神様より来る故である。故に天界にては、厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んでゐます』
治国『尊き厳の御魂、瑞の御魂の大神様、愚昧なる吾々を教導せむがために、五三公、竜公の口を通し間接内流を以て吾々にお示し下さいましたその御高恩を、有難く感謝致します。あゝ惟神霊幸倍坐世惟神霊幸倍坐世』

(大正一二・一・一〇 旧一一・一一・二四 北村隆光録)



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