出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語47-2-81923/01舎身活躍戌 中有王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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本文    文字数=9647

第八章 中有〔一二四一〕

 人間がこの世にギヤツと生るるや、その意思の方面から見た時は即ちその吾のままなる時は悪き事ばかりである。人間は何程立派に博愛だ、善道だ、忠だ、孝だと云つて居つても、詮じつめれば、ただ自己のみ都合の好い事ばかりを考へて容易に他の事を顧みないものである。かくの如く己のみ良からむ事を願ふ利己心の強い人間は他人の不幸を見て、結句心地よく思ふものが多いやうである。他人の不幸が却て自分等の利益となる場合には殊更に福でも降つて来たやうに思つて北叟笑をするものである。何故なれば、かかる利己的の人間は総じて他人の利福や名誉たると財力たるとを問はず、何とかして自分の所有になさむ事をのみ願ふものである。かかる不善なる意思を根本的に改めて善に遷らしめむがために、誠の神様より人間に対し諸々の真理を会得すべき直日の霊の力を賦与されてゐるものである。この真理を判別する所の直日の霊の光によつて、その意思より起る所の一切不善の情動を覆滅し断絶せしめむとし給ふのである。人間が天賦の智性中の真、未だ意思中の善と相和合せざる時は所謂中程の状態にあるものだ、現世の人間は大抵この状態に居る者が多い。彼等は真理の何たるを知り、また知識の上や理性の上にて真理を思惟する事は出来るけれども、その実地行ふ所の真理に至つては、或は多く或は少なくまた絶無なるものがある。或は悪を愛する心即ち虚偽の信仰よりして真理に背反せる動作をなすものがある。故に人間は高天原と根底の国との何れか一方に適従する所あらしめむがため、霊肉脱離後即ち死後先づ中有界一名精霊界に導き入れられるものである。高天原に上るべきものにはこの中有界において善と真との和合が行はれ、また根底の国へ投げ入れらるべき精霊にはこの八衢において悪と虚偽との和合が行はれるものである。何故なれば高天原においても根底の国においても善悪不決定の心を有する事を許されないからである。即ち智性上にこれを思うて意思の上に彼を志すが如き事は許されない。必ずやその志す所を諒知しその知る所を志願せなくてはならない事になつてゐるからである。治国別、竜公両人が今や精霊界に進み、天界地獄の中間状態にその身を置いて伊吹戸主神に種々の霊界の消息を承はつたその大略を此処に述べる事とする。
 先づ地獄界の入口は如何なるものなりやを示すならば、一切の地獄界はこの精霊界の方面に対しては硬く塞がつてゐるものである。ただ僅かに岩間の虚隙に似たる穴があり裂け口があり、或は大なる門戸があつて暗い道が僅かに通じ紛々たる臭気を帯びた風が吹いてゐるのみである。地獄の入口には守衛が厳しく立つてゐて、猥りに人間の出入するを許さないことになつてゐる。故に地獄界を探険せむとせば、伊吹戸主神の許しを受けなくてはならない。これも容易には許されない事になつてゐる。
 一旦現界へ帰つて現界の人間に霊界の事を説き諭す宣伝使か、或は緊急の必要ある場合に限つて許さるるものである。瑞月が高熊山の聖場において地獄界を探険したのも矢張り八衢の神の許可を受けて行く事を得たのである。高天原へ上る道もまた四方が塞がり高天原の諸団体に通ずべき道は、容易に見当らないのである。僅かに一条の小さい道が通つてあつて守衛がこれを守つてゐる。しかしながら高天原へ上るべき資格のないものの目には到底見る事は出来ないものである。また中有界は山岳と岩石との間にある険しい谷に似た所が多い。此処彼処に折れ曲りの所が沢山にあり、また非常に高い処や低く窪んだ処もある。或は大川が流れ或は深い谷があり、広野があり種々雑多の景色が展開してゐる。そして高天原の諸団体に通ずる諸々の入口は、高天原に上るべき準備を終へたる天人の資格を持つてゐる者でなくては見る事は出来ない。故に中有界に迷うてゐる精霊や地獄行の精霊の目には到底発見する事は出来得ないのである。精霊界から天国の各団体に通ずべき入口はただ一筋の細い道があるばかりである。この道をダンダンと上り行くに従つて道は分れて数条となり、追々分れて幾十条とも分らなく各団体にそれぞれの道が通じてゐるのである。また根底の国に通ふ所の入口は、これに入るべき精霊のために開かるるものであるから、その外の者はその入口を見る事は出来ない。入口の開くのを見れば薄暗うて恰も煤けた蜂の巣のやうに見えて居る。さうして斜に下向しておひおひと深い暗い穴へ這入つて行く事になつてゐる。この暗い入口を探り探りて下つて行くと、先になつてまた数個の入口が開いてゐる。この入口の穴から悪臭紛々として鼻をつき出て来るその不快さ、自然に鼻が曲り息塞がり眉毛が枯れるやうな感じがして来るものである。故に善霊即ち正守護神は甚だしくこれを忌み嫌ふが故にこの悪臭を嗅ぐやいなや恐れて一目散に走り逃げ去るものである。しかしながら地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊即ち副守護神は、この暗黒にして悪臭紛々たるを此上なく悦び楽しむが故に、喜んでこれを求め勇んで地獄の入口に飛び込むものである。世間の大方の人間が己の自性に属する悪を喜ぶ如く、死後霊界に至ればその悪に相応せる悪臭を嗅ぐ事を喜ぶものである。この点においては彼等悪霊の人間は貪婪飽くなき鷲や鷹、狼、虎、獅子、豚の類に比ぶべきものである。彼等の精霊は腐つた屍骸や堆糞等の嘔吐を催さむとする至臭至穢物を此上なく喜び、その臭気を尋ねて糞蠅の如くに集まつて来るものである。是等の人間の霊身は高天原の天人の気息や芳香に合ふ時は、内心の苦しみに堪へず悲鳴をあげて泣き倒れ苦しみ悶えるものである。実に大本開祖の神示にある身魂相応の神の規則とは実に至言と云ふべしである。凡て人間には二箇の門が開かれてある。さうしてその一つは高天原に向つて開き、一つは根底の国に向つて開いてゐる。高天原に向つて開く門口は愛の善と信の真とを入れむがために開かれ、一つは所在悪業と虚偽とに居るもののために地獄の門が開かれてあるのだ。さうして高天原より流れ来る所の神様の光明は上方の隙間から僅かに数条の線光が下つて居るに過ぎない。人間がよく思惟し究理し言説するはこの光明によるものである。善に居りまた従つて真に居るものは自ら高天原の門戸は開かれてゐるものである。
 人間の理性心に達する道は内外二つに分れて居る。最も高き道即ち内分の道は愛の善と信の真とが大神より直接に入り来る道である、さうして一つは低い道、即ち外部の道である。この道は根底の国より所在罪悪と虚偽とが忍び入るの道である。この内部外部の道の中間に位して居るのが所謂理性心である。以上二つの道はこれに向うてゐる故に高天原より大神の光明入り来る限り人間は理性的なる事を得れども、この光明を拒みて入れなかつたならばその人間は自分が何程理性的なりと思ふともその実性においては已に已に滅びて居るものである。人間の理性心と云ふものは、その成立の最初に当つて必ず精霊界に相応するものである。故にその上にある所のものは高天原に相応し、その下にあるものは必ず根底の国へ相応するものである。高天原へ上り得る準備を成せるものにあつては、その上方の事物がよく開けて居るけれども、下方の事物は全く閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けないものである。これに反し根底の国へ陥るべき準備をなせるものにあつては、低き道即ち下方の事物は開けて居るが内部の道即ち上方の事物、霊的方面は全く閉鎖せるが故に愛善と信真の内流を受ける事が出来ない。これを以て前者はただ頭上即ち高天原を仰ぎ望み得れども、後者はただ脚下即ち根底の国を望み見るより外に途はないのである。さうして頭上を仰ぎ望むは即ち大神を拝し霊光に触れ無限の歓喜に浴し得れども、脚下即ち下方を望むものは誠の神に背いて居る身魂である。

(大正一二・一・八 旧一一・一一・二二 北村隆光録)



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