出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語42-0-21922/11舎身活躍巳 総説に代へて王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
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本文    文字数=6311

総説に代へて

○霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
○神界は神道家の唱ふる高天原であり、仏者の謂ふ極楽浄土であり、耶蘇の曰ふ天国である。
○中界は神道家の唱ふる天の八衢であり、仏者の謂ふ六道の辻であり、キリストの曰ふ精霊界である。
○幽界は神道家の唱ふる根の国、底の国であり、仏者の謂ふ八万地獄であり、キリストの曰ふまた地獄である。
 故に天の八衢は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位置にして即ち情態である。人の死後直に到るべき境域にして、所謂中有である。中有に在ること稍久しき後、現界に在りし時の行為の正邪により、或は高天原に上り或は根底の国へ落ち行くものである。
○人霊中有の情態(天の八衢)に居る時は、天界にもあらずまた地獄にもあらず。仏者の所謂六道の辻または三途の川辺に立つて居るものである。
○人間における高天原の情態とは、真と善と美の相和合せし時であり、根底の国の情態とは、邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時を云ふのである。
○人の霊魂中に在る所の真と善と美と和合する時は、その人は直ちに天国に上り、人の霊魂中に在る邪悪と虚偽と合致したる時は、その人は忽ち地獄に落つるものである。かくの如きは天の八衢に在る時において行はるるものである。
○天の八衢(中有界)に居る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。直ちに高天原へ上るのもあり、直ちに地獄に落ちるのもある。極善極真は直ちに高天原に上り、極邪極悪は直ちに根底の国へ墜落してしまふのである。或は八衢に数日または数週日、数年間居るものもある。されど此処に三十年以上居るものは無い。此の如く時限において相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。
○人間の死するや、神は直ちにその霊魂の正邪を審判し給ふ。故に悪しき者の地獄界における醜団体に赴くは、その人間の世にある時、その主とする所の愛なるもの忽ち地獄界に所属して居たからである。また善き人の高天原における善美の団体に赴くのも、その人の世に在りし時のその愛、その善、その真は正に天国の団体に既に加入して居たからである。
○天界、地獄の区劃は、かくの如く判然たりと雖も、肉体の生涯に在りし時において、朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹と成りしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することが出来るものである。
○生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹と雖も、一旦この八衢において別れた時は、高天原においても根底の国においても、再び相見る事は出来ない、また相識ることもない。但同一の信仰、同一の愛、同一の性情に居つたものは、天国において幾度も相見相識ることが出来るのである。
○人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。しかるにこの順序を待たずに、直に高天原に上り根底の国へ落つるものもあるのは、前に述べた通りである。
 直ちに高天原に上りまたは導かるるものは、その人間が現界に在る時、神を知り、神を信じ、善道を履み行ひ、その霊魂は神に復活して、高天原へ上る準備が早くも出来て居るからである。また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの、即ち自己の兇悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、直ちに地獄に墜落し、無限の永苦を受くる事になるのである。
○死後高天原に安住せむとして霊的生涯を送ると云ふことは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨て、その身肉に属せる所謂情欲なるものを一切脱離せなくてはならないからだ、と言ふ人がある。此の如き考への人は、主として富貴より成れる世間的事物を斥け、神、仏、救ひ、永遠の生命と云ふ事に関して、絶えず敬虔な想念を凝らし、祈願を励み、教典を読誦して功徳を積み、世を捨て、肉を離れて、霊に住めるものと思つて居るのである。しかるに天国はかくの如くにして上り得るものではない。世を捨て、霊に住み、肉に離れようと努むるものは、却て一層悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受する事は到底出来るものでない。何となれば、人は各自の生涯が死後にも猶留存するものなるが故である。高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受けむと思はば、現世において世間的の業務を執り、その職掌を尽し、道徳的民文的生涯を送り、かくして後始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを外にしては、霊的生涯をなしその心霊をして、高天原に上るの準備を完うし得べき途はないのである。内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣の如きものである。或は次第に陥没し或は壁落ち床破れ崩壊し傾覆する如きものである。
 あゝ惟神霊幸倍坐世
  大正十一年十一月十四日
    口述者識



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