出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-1-11922/10舎身活躍丑 道すがら王仁三郎参照文献検索
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第一章 道すがら〔一〇三八〕

 『天帝一物を創造す。悉く力徳による。故に善悪相混じ美醜互に相交はる』
 これ道の大原の初発に示されたる聖句である。つらつら考ふるに、蒼空を仰望しても海原を見ても、山川虫魚を見ても、悉く善悪美醜の区別が様々あつて、『この世界は至善至美の神様がお造りになつた以上は、悪といふ事は微塵もなく、至善至美の物ばかりであらねばならぬ』と云ふ人がありますが、決してさうはゆきませぬ。ある人が、喜楽に向つて詰問して曰く、
『天帝果して全智全能にして、万物を造りかつ真善美を好むものならば、何故その全智全能の神徳によつて、美なるもの善なるもののみを拵へて、醜悪なるものを拵へぬ筈である。神の意志果して真善美を愛するならば、元より善ばかりを拵へて置けば、別に悪を造つておいて悪を改めしめむとて宣伝に努力するの必要は無いではないか。要するに天帝は自分から醜悪なるものを造り、その醜悪を嫌ふと云ふのは自家撞着も甚だしい矛盾である。吾等はここに至つて全智全能の神を疑はざるを得ず』
と云つた人が沢山にあつた。しかしながら何人と雖も今日までの諸々の宗教、倫理、道徳説が貧弱なる頭悩に浸み込んで居る人の考へから見れば、実に尤も至極の疑問である。喜楽等も少年の頃からこの問題には大変に心を砕いて来たものである。時の古今を問はず、洋の東西を論ぜず、凡ての哲学者、宗教家もこの問題については頻りに研究をして居たやうである。世界皆善論を唱へるものもあれば、世界皆悪論を唱へるものも現はれて居る。また『この世は夢の浮世ぢや』と云つて厭離穢土と称し、『未来の天国浄土を楽しむのが人生の大目的だ』などと区々の説を立て、所説紛々として落着く所を知らず、宙に迷ふて居る姿である。古今の学者が一人として今日に至るまで、大宇宙の本体を捉え、人生の真目的を諒解したる者は無いやうである。仏教にしても儒教にしても、現代我国の十三派の神道宗教にしても、その他種々雑多の宗教にしても、決して宇宙の真相を解決し得た者は無い。しかしながら尊い事には、我国には皇祖皇宗の御遺訓なる古事記、日本書紀その他の古書が伝はり、言霊の明鏡が歴然として輝き、宇宙の真理を解決すべき宝典に乏しくはなけれども、闇黒なる今日の思想界においては、この真理を諒解するだけの偉人も賢哲も学者も現はれて居ないと云ふ事は、国家社会のために実に慨嘆の至りである。
 喜楽は幼時より我国体の淵源を極めむとし、且明治卅一年以後今日に至るまで、殆ど廿五年間、艱難辛苦を積み神界の真相の一端を極めた結果、宇宙真理の一部を『霊界物語』として発表する事となつたのである。道の大原の聖句にも、天地間の万物に善悪美醜の混交せるは、全く力徳の塩梅によるものと断定を下してあるのは、実に万古不易の真理である。
 偖この力徳と云ふ事は、一朝一夕に説き明す訳には行かぬ。約言すれば、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力の活動の如何によつて、善悪美醜大小強弱が分れるのである。『人は天地の花、万物の霊長』と称へられて居るが、大本では一歩進んで、
『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり』
と断定を下して居るのである。これも出口教祖の廿七年間の筆先の大精神を通観して得た所の断案である。かくの如く尊き天地経綸の司宰者たる人間にも、また善悪美醜大小強弱の区別があつて、中には天地経綸の司宰者どころか、却て天地経綸の妨害をなす人間が沢山に出来て居る。かくの如き人間が現はれて来るのは、要するに一つは教育の如何にもよるのは無論だが、真の原因は決してさうでは無い。肝賢の大原因は天賦の力徳の過不及による処の結果で、お筆先の所謂身魂の因縁性来によるものである。概して人間の肉体の善悪強弱は、凡て力徳の過不及により生ずる所の結果である。人の心の善悪智愚は元より教育によつてその一部分は左右せらるるものである。しかし人は神様に次での尊きもので、世界を善に進め美に開くべき天職を天賦的に持つて居るものである。人間は小なる神としてまた神の生宮としてこの世に生れ出でたる以上は、終生神の御旨を奉戴し天地の御用を助け奉らねば、人と生れ出でたる本分が尽せないのである。人間は裸体で生れて来たのであるから、また裸体で死ねばよいと云ふやうな棄鉢根性では、人生天賦の職責が遂げられぬのみならず、折角神界より選まれて神の生宮として世に生れさして頂いた、大神の御聖旨に背く罪人となるのである。
 人生の本分としては、第一に天地神明の大業に奉仕し、政治をすすめ、産業を拓き、且真の宗教を宣伝し、道義心の発達を助けて世界の醜悪を駆追し、真善美の天地に進めて行かねばならぬのである。他人はどうでも構はぬ、自分のみ清く正しければいいのだと云つて、聖人気どりで済まして居るやうな事では、人間としての天職を全くしたものと云ふ事は出来ないのである。喜楽は常に政教慣造の進歩発達を祈願し、且完成せしむるを以て人たるものの天職だと考へて居る。皇祖天照大神様が建国の御趣旨は、政教慣造の四大主義の実行であつて、
一、政は万世一系也
一、教は天授の真理也
一、慣は天人道の常也
一、造は適宜の事務也
即ちこの四大主義を実践躬行するのが人生の本分であつて、特に我神国に生れたものは、一層責任の重かつ大なるものである事を忘れてはならぬ。吾人は何れもこの主義に向つて、最も忠実に勤め奉らねばならぬのである。吾人は人生の重大なる責任を感じ、どうしても肉体の安楽のみを貪る事は出来ない。人生の本分を幾分なりとも遂行し得ざる内は、如何なる栄華も歓楽も自分の心を満たす事は出来ない。美衣美食財宝なども到底天授の心魂を喜ばすに足らぬ。ただ天下公共のために自分としての天職を尽し得る事が肝賢である。一寸先の見えないやうな不完全なる、罪に穢れたる吾人の身を以て、到底重大なる天職を完ふする事は出来ずとも、その幾分にても奉仕し得たならば、これに過ぎたる人生の幸はないのである。
 今日の瑞月としては、浅薄なる肉体上の観察から見るならば、実に安楽なもののやうであるが自分としては実に一日も安んじては居ないのである。数多の役員や信者は親のやうに崇め『先生々々』と云つて厚く遇してくれて居るやうであるが、自分のためには、却てそれが苦痛の種となるのである。何故なれば役員信者の親切や好意は大に有難迷惑を感ずる事があるからである。自分の真の使命を諒解するのでもなく、ただ単に出口教祖のお筆先によつて、色々と私に対する空想を描いて居る人が多いからである。また如何なる立派な事を話しても説いてもそれは教祖の筆先に出てゐないから用ゐられないとか云つて、如何なる真理も無造作に葬つてしまふので、何程筆先の精神を縦横無尽に説いても、十分に感得せしむる事が出来ぬのが実に遺憾である。また自分の肉体に対し、役員信者が非常に気をつけて好意を表してくれられるが、肝賢要の真実の精神を汲みとつてくれるものが少いのは最大の苦痛である。今迄の役員信者は自分を妙な事に過信して、堅実な教理等は頭から耳に入れぬのみか、今に世界の救ひ主にでもなるやうに、身魂も研かずに騒ぎ廻つて居るのは実に残念であります。自分に少しにても権謀術数的の精神があるならば、十年以前の大本は、役員信者等とも折合がうまくついて、極めて平和であつたでせう。役員や信者の迷信を利用して猫を被つて居やうものなら、物質的方面の事などは如何な事でも出来たでありませう。しかしながら自分の天授の良心がどうしても、そんな事を許さない。今の世の中のやうに神の道は方便や手段では行かぬ。方便や手段を以てした事は何時しか化の皮が剥げるものである。況んや至誠至直の神に仕ふる身分としては、夢にだにも良心の許さぬ事は出来ない。自分は天地と共に亡びざる大真理即ち神の大道より外の道を歩む事は出来ぬ。真理のためには一身を献げて悔いないのである。今日の場合は如何にしても社会一般の誤解を正し、大本を正解させることが必要であると感じたから、茲に天下修斎のため真理の旗幟を翻し、神様に一身を献げて口を藉し、茲に愈この物語を発表する事となつたのである。混濁せる社会のため一身を捧げて五六七の御世に奉仕せむと云ふ誠の人は、一日も早くこの物語の精神に目を醒まし天下万民のために誠を尽して頂きたいものである。

 選まれし神の使の甲斐もなし
  人を導く力なき身は

(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 北村隆光録)



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