出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語32-2-131922/08海洋万里未 平等愛王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
詳細情報:
場面:
南の森林
あらすじ
未入力
名称
秋山別 兎 エルバンド カーリンス 高姫 鷹依姫 竜国別 常彦 テーリスタン 春彦 宗彦 モールバンド モリス 安彦 ヨブ
天御中主大神 狼 大宜津姫神 大山祇 大蛇 神皇産霊神 国治立大神 熊 豺 獅子 獅子王 真人 造化三神 高皇産霊神 月の大神 天帝 虎 野槌の神 豹 ミカエル 鰐
アマゾン河 神言 屍化 神人 宿世の因縁 恙虫 天国 物質文明 ペスト 霊の因縁性来 南の森林 霊魂学
 
本文    文字数=14915

第一三章 平等愛〔九〇四〕

 高姫外七人は鰐の橋を渡り、南の森林に数多の兎に迎へられ、漸くにして、青垣山を繞らせる森林の都、月の大神の鎮祭しある霊場に辿り着いた。鷹依姫は白髪の冠を頂き、凡ての猛獣を子の如くなつけ、普く獣の霊の済度に全力を尽してゐる。
 高姫は久し振りに鷹依姫に面会し、固く手を握りものをも言はず、嬉しさと懐しさに涙を両頬より垂らしてゐる。ここに愈高姫一行八人と、鷹依姫の一行四人を加へ十二の身魂は、天地に向つて七日七夜の間断なき神言を奏上し、すべての猛獣を悉く言向け和し、肉体を離れたる後は必ず天国に到り、神人となつて再びこの土に生れ来り、神業に参加すべき約束を与へ、所在猛獣をして歓喜の涙に酔はしめたり。
 如何に猛悪なる獅子、虎、狼、熊、大蛇、豺、豹と雖も、口腹充つる時は、決して他の獣類を犯す如き暴虐はなさないものである。ただ飢に迫り、その肉体の保存上、止むを得ずして他の動物の生命を奪り食ふのみである。
 しかるに万物の霊長たる人間は、倉廩満ちても猶欲を逞しうし、他人を倒し、ただ単に自己の財嚢を肥し、吾子孫のために美田を買ひ、決して他を憐み助くるの意思なき者、大多数を占めてゐる。しかしながら、神代は社会上の組織、最も簡単にして、物々交換の制度自然に行はれ、金銭と雖も珍しき貝殻、或は椰子の実の種をいろいろの器になし、これを現今の金に代用し、または砂金などを拾ひて通貨の代用にしてゐたのである。さうして一定の価格も定まつてゐなかつた。それ故神代の人は最も寡欲にして、如何に悪人と称せらるる者と雖も、只々情欲のために争ふ位のものであつた。時には大宜津姫神現はれて、衣食住の贅沢始まり、貧富の区別漸く現はれたりと雖も、現代の如き大懸隔は到底起らなかつたのである。
 大山祇、野槌の神などの土地山野を区劃して占領し、私有物視したる者も出で来りたれども、これまた現代の如くせせこましき者にあらず、実に安泰なものであつた。
 高姫、鷹依姫、竜国別は、茲に猛獣に対し、神に許しを受けて、律法を定め、彼等をして固く守らしめた。その律法の大要は、
一、熊は熊、虎は虎、狼は狼、獅子は獅子、蛇は蛇、兎は兎としてある地点を限り、其処に部落を作り、互に他獣の住所を侵さざる事
一、各獣族は一切の肉食を廃し、木の実または草の葉、木の芽などを常食とし、しかも身体少しも痩衰へず、性質温良になり、互に呑噬の争ひをなさざる事
一、時々各獣団体より代表者を兎の都に派遣し、最善の生活上の評議をなす事
一、鰐をして、モールバンド、エルバンドの襲来に備へ、かつアマゾン河の往来の用に任ずる事
一、鰐を獅子王の次の位と尊敬し、年々、各獣、月の大神の社前に集まりて、懇談会を開き鰐を主賓となし、年中の労苦を犒ふ事
一、右の律法に違反したるものは、獅子王の命により、その肉体は取り喰はれ、その子孫永遠に獣類の身体を受得して、地上に棲息するの神罰を与へらるる事
等の数ケ条の律法を定め、獅子王を始め各獣の王をして、これをその種族一般に布告せしめた。
 これよりその律法を遵守し、月の大神の宮に詣でて赤誠を捧げたるものは、一定の肉体の期間を経て帰幽するや、直にその霊は天国に上り、再び人間として地上に生れ来ることとなりぬ。
 またこの律法に違反したる各獣は、その子孫に至るまで、依然として祖先の形体を保ち、今に尚人跡稀なる深山幽谷森林などに、苦しき生活を続けてゐるのである。あゝ尊き哉、月の大神の御仁慈よ。
 国治立大神は、あらゆる神人を始め禽獣虫魚に至るまで、その霊に光を与へ、何時迄も浅ましき獣の体を継続せしむることなく、救ひの道を作り律法を守らしめて、その霊を向上せしめ給へり。故に禽獣虫魚の帰幽せしその肉体は、決して地上に遺棄することなく、直に屍化の方法によつて天にそのまま昇り得るは、人間を措いて他の動物に共通の特権である。猛獣は云ふも更なり。烏、鳶、雀、燕その外の空中をかける野鳥は、決して屍を地上に遺棄し、人の目に触るる事のなきは、皆神の恵によりて、ある期間種々の修業を積み、天上に昇り、その霊を向上せしむる故なり。ただ死してその体躯を残す場合は、人に鉄砲にて撃たれ、弓にて射殺され、或は小鳥の大鳥に掴み殺され、地上に落ちたる変死的動物のみ。その他自然の天寿を保ち帰幽せし禽獣虫魚は残らず神の恵によりて、屍化の方法により天上に昇り得る如きは、天地の神の無限の仁慈、偏頗なく禽獣虫魚に至るまで、依怙なく均霑し給ふ証拠なり。ただ人間に比べて、禽獣虫魚としての卑しき肉体を保ち、この世にあるは、人間に進むの行程であることを思へば、吾人は如何なる小さき動物と雖も、粗末に取扱ふ事は出来ない事を悟らねばならぬ。その精神に目覚めねば、真の神国魂となり、神心となることは到底出来ない。また人間としての資格もない。
 かく曰はば人或は云はむ、魚を捕る漁師なければ吾等尊き生命を保つ能はず、獣を捉ふる猟夫なければ日常生活の必要品に不便を感ず、無益の殺生はなさずと雖も、有益の殺生はまた已むを得ざるべし。かかる道を真に受けて遵守することとせば、社会の不便実に甚しかるべしとの反対論をなす者がキツト現はれるでありませう。しかし各自にその天職が備はり、猫は鼠を捕り、鼠は人類の害をなす恙を捕り喰ひ、魚は蚊の卵孑孑を食し、蛙は稲虫を捕り、山猟師は獅子、熊を捕り、川漁師は川魚を捕り、海漁師は海魚を捕りて、その職業を守るは皆宿世の因縁にして、天より特に許されたるものである。故に山猟師の手にかかる禽獣はすでに天則を破り、神の冥罰を受くべき時機の来れるもののみ、猟師の手にかかつて斃れる事になつてゐるのである。海の魚も川魚も皆その通りである。
 しかるに現代の如く、遊猟と称し、職人が休暇を利用して魚を釣り、官吏その他の役人が遊猟の鑑札を与へられて、山野に猟をなすが如きは、実に天則違反の大罪と云ふべきものである。自分の心を一時慰むるために、貴重なる禽獣虫魚の生命を断つは、鬼畜にも優る残酷なる魔心と云はなければならぬ。人には各天より定まりたる職業がある。これを一意専心に努めて、士農工商共神業に参加するを以て、人生の本分とするものである。
 ペストが流行すると云つては、毒薬を盛り鼠を全滅せむと謀る人間の考へも、理論のみは立派なれども到底これを全滅する事は出来ない。また鼠が人家になき時は人間の寝息より発生する邪気、天井に凝結して小さき恙虫を発生せしめ、その虫のために貴重の生命を縮むるやうになつてしまふ。神はこの害を除かしめ、人のために必要に応じて鼠を作り給うたのである。鼠は恙虫を最も好むものである。故にその鳴声は常に『チウチウ』と云ふ。チウの霊返しは『ツ』となる。しかしながら鼠の繁殖甚しき時は、食すべき恙少きため、止むを得ず、米櫃を齧り、いろいろと害をなすに至る。故に神は猫を作りて、鼠の繁殖を調節し給うたのである。猫の好んで食するものは鼠である。鼠の霊返しは『ニ』となる。猫の鳴声は『ニヤン』と鳴く、『ヤ』は退ふこと、『ン』は畜生自然の持前として、言語の末に響く音声である。故に『ニヤン』と云ふ声を聞く時は、鼠の『ニ』は恐れて姿を隠すに至るは言霊学上動かすべからざる真理である。人試みに引く息を以て、鼠の荒れ廻る時、『ニヤン』と一二声猫の真似をなす時、荒れ狂ひたる鼠は一時に静まり遠く逃げ去るべし。『ニヤ』の霊返しは『ナ』となる。故に猫の中において、言霊の清きものは『ナン』と鳴くなり。
 すべて禽獣虫魚は引く息を以て音声を発し、神国人は吹く息を以て臍下丹田より嚠喨たる声音を発し、また引く息、吹く息の中間的言語を発する人種もあることを忘れてはならぬ。
 また鳥の中にも、吹く息、引く息の中間的の声音を一二声発するものが、たまにはあるものである。馬は陽性の動物なれば、『ハヒフヘホ』と声音を発し、牛は陰性の動物なれば、『マミムメモ』の声音を発す。その他一切の動物、各特有の音声を有し、完全にその意思を表示することは発端に述べた通りである。
 馬は陽性の獣類なれば、人その背に跨がり『ハイ』と声をかくれば、忽ち無意識に前進す。『ハ』は開き進むの言霊であり『イ』は左右の息である。即ち左右の脚を開きて進めと云ふ命令詞となる。牛は陰性の獣類なれば、人あり、後より『シイ』と言へば前進す。『シ』は水にしてかつ俯むき流れ動くの意である。『イ』は前に述べた通りである。馬は頭をあげて、陽の息を示して進み、牛は頭を下げて陰の水火を示して進む。陽性の馬は『ドー』と言へば止まり、陰性の牛は『オウ』と言へば止まる。『ド』は陽的不動の意味であり、『オー』は陰的不動の言霊の意味である。
 これを以てこれを見れば、禽獣虫魚一切、惟神的に言霊によりて動止進退することは明白なる事実である。その他の禽獣皆しかりである。
 ある古書にミカエル立ちて叫び給へば、山川草木、天地一切これに応ずとあるも、言霊の真意活用を悟りたる真人の末世に現はれて、天地を震撼し、風雨雷霆を叱咤しまたは駆使し、山川草木を鎮定せしめ、安息を与ふる言霊の妙用を示されたものである。あゝ偉大なる哉、言霊の妙用!
   ○
 これより高姫、鷹依姫、竜国別、外九人は月の大神の御前に恭しく拝礼を了り、兎の王をして厚く仕へしめ、アマゾン河の畔に出でて、モールバンドを始めエルバンドの一族に向ひ、善言美詞の言霊を与へて、彼等を悦服せしめ、遂にモールバンド、エルバンドは言霊の妙用に感じ、雲を起し、忽ち竜体となつて天に昇り、風を起し、雨を呼び、地上の一切に雨露を与へ、清鮮の風を万遍なく与へて、神人万有を安住せしむる神の使となりたり。
 しかしながら、まだ悔い改めざる彼等怪獣及猛獣の一部は、今尚浅ましき肉体を子孫に伝へて、或は森林に或は幽谷に潜み、海底、河底に潜伏などして、面白からぬ光陰を送つてゐるものもあるのである。
 古の怪しき獣は、今日に比ぶれば、その数においてその種類において最も夥しかつた。しかしながら三五教の神の仁慈と言霊の妙用によつて、追々に浄化し、人体となつて生れ来ることとなつた。故に霊の因縁性来等において、今日と雖も、高下勝劣の差別を来たすこととなつたのである。しかしながら何れもその根本は天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したるものなれば、宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、何れも兄弟同様である。
 同じ人間の形体を備へ、同じ教育をうけ、同じ国に住み、同じ食物を食しながら、正邪賢愚の区別あるは、要するに霊の因縁性来のしからしむる所以である。
 ある理窟屋の中には、総ての人間は同じ天帝の分霊なれば、霊の因縁性来、系統、直系、傍系などの区別ある理由なしと論ずる人がある。かくの如き論説は、ただ一片の道理に堕して、幽玄微妙なる霊魂の経緯を知らざる人である。人の肉体に長短肥瘠、美醜ある如く、霊魂もまたこれに倣ふは自然の道理である。要するに人間の肉体は霊魂のサツクのやうなものであるから、人間各自の形体は霊魂そのものの形体であることを悟らねばならぬ。霊魂肉体を離れ、霊界に遊ぶ時は、その脱却したる肉体と同様の形体を備へ居る事は、欧米霊学者の漸く認むる所である。
 物質文明の学は泰西人に先鞭をつけられ、霊魂学の本場たる我国はまた泰西人に霊魂学まで先鞭をつけられつつあるは、天地顛倒、主客相反する惨状と云はねばならぬ。我々は数十年来霊魂学の研究につき、舌をただらし、声をからして叫んで来た。されど邦人は如何に深遠なる真理と雖も、泰西人の口より筆より出でざれば、これを信ぜざるの悪癖がある。故に如何なる高論卓説と雖も、一旦泰西諸国に輸出し、再び泰西人の手を借りて、輸入し来らざれば、信ずること能はざる盲目人種たることを、我々は大に歎く者である。この物語もまた一度泰西諸国の哲人の耳目に通じ、再び訳されて輸入し来るまでは、邦人の多数はこれを信じないだらうと予想し、かつ深く歎く次第であります。惟神霊幸倍坐世。

(大正一一・八・二三 旧七・一 松村真澄録)



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