出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語19-99-11922/05如意宝珠午 霊の礎(五)王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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場面:

あらすじ
 人間は何故肉体を持って生まれてくるか。
 天人(霊身人)が夫婦の情交を行い霊子をまきちらし、地上は天国の移写であるから、現界の因縁の身魂が霊を感じ、情交をなし、胎児を宿す。
 天国に住む天人は、是非とも一度人間の肉体内に入ってその霊子を完全に発育せしめ、現人同様の霊体を造りあげ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる、霊体として、天上に還らしめんためである。現界人の肉体は、天人養成の苗代であり、学校である。
名称

天津神 現人 真神 天人 霊魂 霊子 霊身 霊身人 霊体
胞衣 現界 現実界 神界 精霊界 高天原 天国 根底の国 霊界
 
本文    文字数=6903

霊の礎(五)

一、高天原に復活したる人間の霊身は、地上現実界に生存せし時の如く、思想感情意識等を有して楽しく神の懐に抱かれ、種々の積極的神業を営むことを得るは前に述べた通りである。
 さて人間はどうして現界に人の肉躰を保ちて生れ来るかと云ふ問題に至つては、如何なる賢哲も的確な解決を与へて居ない。しかしこれは実に止むを得ない所である。物質的要素を以て捏ね固められたる人間として無限絶対なる精霊界の消息を解釈せむとするのは恰も木に倚りて魚を求め、海底に潜みて焚火の暖を得むとするやうなものである。故に現界人は死後の生涯や霊界の真相を探らむとして、何程奮勉努力した所で到底不可能不成功に終るのは寧ろ当然である。一度神界の特別の許可を得たるものが、無数の霊界を探り来たり、これを現界へその一部分を伝へたものでなくては到底今日の学者の所説は臆測に過ぎないことになつてしまふ。
一、抑も高天原の天国に住む天人即ち人間の昇天せし霊身人は地上と同様に夫婦の情交を行ひ、終に霊の子を産んでこれを地上にある肉体人の息に交へて人間を産ましめるものである。故に人は神の子、神の宮といふのである。地上は凡て天国の移写であるから天国において天人夫婦が情交を行ひ霊子を地上に蒔き落す時はその因縁の深き地上の男女は忽ち霊に感じ情交をなし胎児を宿すことになる。その胎児は即ち天人の蒔いた霊の子の宿つたものである。その児の善に発達したり悪に落つるのもまたその蒔かれた田畑の良否によつて幾分かの影響をその児が受けるのは止むを得ない。智愚正邪の区別の付くのも止むを得ない。石の上に蒔かれた種子は決して生えない。また瘠土に蒔かれた種子は肥沃の地に蒔かれた種子に比すれば大変な相違があるものだ。これを思へば人間は造次にも顛沛にも正しき清き温かき優しき美はしき心を持ち、最善の行ひを励まねばならぬ。折角の天よりの種子を発育不良に陥らしめ或は不発生に終らしむるやうなことに成つては、人生みの神業を完全に遂行することは出来なくなつて宇宙の大損害を招くに至るものである。人間が現界へ生れて来る目的は、天国を無限に開くべく天よりその霊体の養成所として降されたものである。決して数十年の短き肉的生活を営むためでは無い。要するに人の肉体と共にその霊子が発達して天国の神業を奉仕するためである。天国に住む天人は是非とも一度人間の肉体内に入りてその霊子を完全に発育せしめ現人同様の霊体を造り上げ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる霊体として天上に還らしめむがためである。故に現界人の肉体は天人養成の苗代であり学校であることを悟るべきである。
一、胎児は母体の暗黒な胞衣の中で平和な生活を続け十ケ月の後には母体を離れて現界へ生れ喜怒哀楽のために生存するものだと言ふことは知らないが、しかし生るべき時が充つれば矢張り生れなくてはならぬ如く、人間もまた天国へ復活すべき時が充つれば如何なる方法にても死といふ一つの関門を越えて霊界に復活せなくてはならぬのである。胎児は月充ちて胞衣といふ一つの死骸を遺して生るる如く人間もまた肉体といふ死骸を遺して霊界へ復活即ち生るるのである。故に神の方から見れば生通しであつて死といふ事は皆無である。只々形骸を自己の霊魂が分離した時の状態を死と称するのみで要するに天人と生れし時の胞衣と見ればよいのである。胎児の生るる時の苦みある如く自己の本体が肉体から分離する時にも矢張相当の苦しみはあるものである。しかしその間は極めて短いものである。以上は天国へ復活する人の死の状態である。根底の国へ落ちて行く人間の霊魂は非常な苦しみを受けるもので、恰度人間の難産のやうなもので産児の苦痛以上である。中には死産と謂つて死んで生れる胎児のやうに最早浮かぶ瀬が無い無限苦の地獄へ落されてしまふのである。故に人間は未来の世界のある事が判らねば真の道義を行ふことが出来ぬものである。神幽現三界を通じて善悪正邪勤怠の応報が儼然としてあるものと云ふことを覚らねば人生の本分はどうしても尽されないものである。
一、天国に住める天人は地上を去つて天国へ昇り来るべき人間を非常に歓迎し種々の音楽などを奏して待つて居るものである。故に天国を吾人は称して霊魂の故郷と曰ふのである。
 真神即ち主なる神は人間の地上において善く発達し完全なる天人となつて天国へ昇り来り天国の住民となつて霊的神業に参加する事を非常に歓び玉ふのである。天国の天人もまた人間が完全な霊体となつて天国へ昇り来り天人の仲間に成ることを大変に歓迎するものである。
 譬へばここに養魚家があつて大池に鯉の児を一万尾放養しその鯉児が一尾も残らず生育してくれるのを待つて歓び楽んで居るやうなものである。折角一万尾も放養しておいた鯉が一定の年月を経て調べて見るとその鯉の発育悪く満足に発育を遂げたものが百分一に減じその他は残らず死滅したり、悪人に捕獲されて養主の手に返らないとしたらその養主の失望落胆は思ひやらるるであらう。しかし鯉の養主はただ物質的の収益を計るためであるが、神様の愛の欲望は到底物質的の欲望に比ぶることは出来ない。故に人間は何処までも神を信じ神を愛し善の行為を励み、その霊魂なる本体をして完全なる発達を遂げしめ、天津神の御許へ神の大御宝として還り得るやうに努力せなくては、人生の本分を全うすることが出来ない而已ならず、神の最も忌みたまふ根底の国へ自ら落行かねばならぬやうになつてしまふのである。
 アヽ惟神霊幸倍坐世。
   大正十一年十二月
(昭和一〇・六・四 王仁校正)



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