出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語16-99-21922/04如意宝珠卯 霊の礎(一)王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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場面:

あらすじ
 神界、中界、幽界の区別。
 霊魂の審判。
 死後の3段階。
 外分状態、内分状態、準備状態。高天原で永住するための霊的生涯を送るには。
名称

霊魂
天の八衡 嬰児 幼児 外分 極楽 神界 浄土 精霊界 底の国 中有 中界 地獄 天界 天国 内分 根の国 八万地獄 幽界 霊界 六道の辻
 
本文    文字数=6278

霊の礎(一)

 霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
 神界は神道家の唱ふる高天原であり、仏者の謂ふ極楽浄土であり、また耶蘇のいふ天国である。
   ○
 中界は神道家の唱ふる天の八衢であり、仏者の謂ふ六道の辻であり、キリストのいふ精霊界である。
   ○
 幽界は神道家の唱ふる根の国底の国であり、仏者の謂ふ八万地獄であり、またキリストのいふ地獄である。
   ○
 故に天の八衢は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位地にして即ち情態である。人の死後直に到るべき境域にして所謂中有である。中有に在ること稍久しき後現界にありし時の行為の正邪により或は高天原に昇り、或は根底の国へ落ち行くものである。
   ○
 人霊中有の情態(天の八衢)に居る時は天界にもあらずまた地獄にもあらず。仏者の所謂六道の辻または三途の川辺に立ちて居るものである。
   ○
 人間における高天原の情態とは真と善と美の相和合せし時であり、根底の国の情態とは邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時を云ふのである。
   ○
 人の霊魂中に在る所の真と善と美と和合する時はその人は直に天国に昇り、人の霊魂中に在る邪悪と虚偽と合致したる時は、その人は忽ち地獄に墜つるものである。此の如きは天の八衢に在る時において行はるるものである。
   ○
 天の八衢(中有界)に在る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない、直に高天原へ上るのもあり、直に地獄に落ちるのもある。極善極真は直に高天原に上り、極邪極悪は直に根底の国へ墜落してしまふのである。或は八衢に数日または数週日数年間居るものである。されど此処に三十年以上居るものは無い。此の如く時限において相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。
   ○
 人間の死するや、神は直にその霊魂の正邪を審判し給ふ、故に悪きものの地獄界における醜団体に赴くはその人間の世にある時その主とする所の愛なるものが地獄界に所属して居たからである。また善き人の高天原における善美の団体に赴くのもその人の世に在りし時のその愛、その善、その真は正に天国の団体に既に加入して居たからである。
   ○
 天界地獄の区劃は此の如く判然たりと雖も、肉体の生涯に在りし時において朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹となりしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することが出来るものである。
   ○
 生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹と雖も、一旦この八衢において別れたる時は、高天原においても根底の国においても再び相見る事は出来ない。また相識る事も無い。但同一の信仰、同一の愛、同一の性情に居つたものは天国において再び相見、相識ることが出来るのである。
   ○
 人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。しかるにこの順序を待たず直に高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは前に述べた通りである。直に高天原に上りまたは導かるるものは、その人間が現界に在る時神を知り、神を信じ善道を履み行ひ、その霊魂は神に復活して高天原へ上る準備が早くも出来て居たからである。
 また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの即ち、自己の凶悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、直に地獄に墜落し無限の永苦を受くる事になるのである。
   ○
 死後高天原に安住せむとして霊的生涯を送ると云ふことは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨てその身肉に属せる所謂情欲なるものを一切脱離せなくては成らないからだと言ふ人がある。此の如き考への人は主として富貴より成れる世間的事物を斥け、神、仏、救ひ、永遠の生命と云ふことに関して、絶えず敬虔な想念を凝らし祈願を励み教典を読誦して功徳を積み世を捨て肉を離れて霊に住めるものと思つて居るのである。しかるに天国は此の如くにして上り得るものでは無い。世を捨て霊に住み肉を離れようと努むるものは却て一種悲哀の生涯を修得し高天原の歓楽を摂受する事は到底出来るものではない。何ンとなれば人は各自の生涯が死後にも猶留存するものなるが故である。高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受むと思はば現世において世間的の業務を採りその職掌を尽し道徳的民文的生涯を送り、かくして後始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを外にしては霊的生涯をなし、その心霊をして高天原に上るの準備を完ふし得べき途は無いのである。内的生涯を清く送ると同時に外的生涯を営まないものは砂上の楼閣の如きものである。或は次第に陥没し或は壁落ち床破れ崩壊し顛覆する如きものである。アヽ惟神霊幸倍坐世。



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