出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語14-99-11922/03如意宝珠丑 跋文王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
詳細情報:
場面:

あらすじ
***三途の川***
 三途の川は神界と、現界または幽界へ、諸人たちの霊魂が定まる場所。三途の川の婆は、地獄行きの身魂が来ると奪衣婆となり、天国行きの身魂が来ると天使となる。三途の川の流れは、それを渡る人の霊魂によって清くなったり、汚れたりする。

***一途の川***
 一途の川は善一筋の御魂が天国へ昇る川。

***弥勒***
 弥勒の意味は仏教で使われる場合は狭い。大本では至仁至愛の、宇宙万有一切の親、師、主である。

***筆先の用語***
 大本の筆先は教祖入道の最初より仏教の用語で表されているから、すべて仏教の縁によって説明しなくては、大変な間違いがおこる。
名称

艮の金神 エンゼル 王仁 釈迦 神魂 邪霊 瑞月 天使 天子 亡者 神子 弥勒 霊魂
現世 幽世 神世 教祖 三千世界 須弥仙山 神界 神道 神諭 浄土 体主霊従 高天原 天国 根の国 仏教 法華経 幽界 霊界 霊界物語
 
本文    文字数=10025

跋文

 神の御諭を蒙りて  述べ始めたる霊界の
 奇しき神代の物語  神代ばかりか幽界も
 また現界も押並べて  神の随に随に口車
 現幽神の三界の  峠に立ちて三ツ瀬川
 三ツ尾峠や四ツ尾の  峰の麓にそそり立つ
 黄金閣の蔭清き  教主館に横臥して
 三途の流滔々と  瑞の御魂の走り書き
 十四の巻のいや終に  その真相を示すべし
 三途の河は神界と  現界または幽界へ
 諸人等の霊魂の  行衛の定まる裁断所
 八洲の河原とヨルダンの  河とも唱ふ神聖場
 悪の霊魂が行く時は  その川守は鬼婆と
 忽ち変じ着衣剥ぎ  裸体となりて根の国や
 底つ幽世へ落し捨て  善の御魂の来る時は
 川守忽ち美女となり  優しき言葉を使ひつつ
 旧き衣服を脱却し  錦の衣服と着替へさせ
 高天原の楽園へ  行くべき印綬を渡す也
 善悪未定の霊魂が  来たれば川守また婆と
 忽ち変り竹箒  振り上げ娑婆へ追返し
 朝と夕の区別なく  川の流れの変る如
 千変万化の活動を  いや永遠に開き行く
 善悪正邪を立別ける  これぞ霊魂の分水河
 千代に流れて果もなし  抑もこれの川水は
 清く流るることもあり  濁り汚るることもあり
 清濁不定の有様は  集まり来たる人々の
 霊魂々々に映り行く  奇しき尊とき珍らしき
 宇宙唯一の流れなり  激しき上つ瀬渉るのは
 現実界へ生れ行く  霊魂や蘇生する人ばかり
 弱き下津瀬渉り行く  霊魂は根の国底の国
 暗黒無明の世界へと  落ち行く悲しき魂のみぞ
 緩けく強く清らけく  かつ温かく美はしき
 中津瀬渉り行くものは  至喜と至楽の花開く
 天国浄土に登る魂  それぞれ霊魂の因縁の
 綱に曳かれて進み行く  神の律法ぞ尊とけれ
 三途の川の物語  外に一途の川もあり
 抑も一途の因縁は  現世に一旦生れ来て
 至善至真の神仏の  教を守り道を行き
 神の御子たる天職を  尽し了はせし神魂
 大聖美人の天国へ  進みて登る八洲の川
 清めし御魂も今一度  浄めて進み渉り行く
 善一途の生命川  渡る人こそ稀らしき
 一旦現世へ生れ来て  体主霊従の悪業を
 山と積みたる邪霊の  裁断も受けず一筋に
 渉りて根底の暗界へ  堕ち行く亡者の濁水に
 溺れ苦しみ渡り行く  善と悪との一途川
 実にも忌々しき流れ也  アヽ惟神々々
 御霊幸へましまして  三途の川や一途川
 滑稽交りに述べ立てし  この物語意を留めて
 読み行く人の霊魂に  反省改悟の信念を
 発させ給ひて人生の  行路を清く楽もしく
 歩ませ玉へと天地の  神の御前に澄み渡る
 大空輝く瑞月が  天照し坐す大神の
 遍ねく照す光明に  照されながら人々の
 身魂の行衛を明かに  説き示し行く嬉しさよ
 朝日は照るとも曇る共  月は盈つとも虧くるとも
 たとへ大地は沈む共  誠の神の御諭しは
 万劫末代いつまでも  天地の続くその限り
 変りて朽ちて亡び行く  ためしは永遠にあらざらめ
 アヽ惟神々々  御魂幸はへましませよ。

   ○
 神諭に『松の代弥勒の代神世に致すぞよ云々』とあり、弥勒は至仁至愛の意にして、宇宙万有一切の親也師也主也と説きたまへり。読者の中には、仏教の教典に由りて釈迦の説と引き合せ、ミロクは七仏出生説の中にある一仏にして、大本の神諭にある如き尊き位置にある仏または神にあらずと云ふ人あり。仏書のみを読みたる人の意見としては、最も至極なる見解と謂ふべしである。王仁は、序を以て本巻の末尾において仏典に現はれたる弥勒の位置を茲に掲載して、読者の参考に供して見ようと思ふ。
 法華経の序品第一に
 前略
 菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提において退転せず、皆陀羅尼を得、楽説弁才あつて不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所において衆の徳本を植ゑ、常に諸仏に称嘆せらるることを為、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り名称普く無量の世界に聞えて、よく無数百千の衆生を度す。その名を、
  一 文珠師利菩薩
  二 観世音菩薩
  三 得大勢菩薩
  四 常精進菩薩
  五 不休息菩薩
  六 宝掌菩薩
  七 薬王菩薩
  八 勇施菩薩
  九 宝月菩薩
  十 月光菩薩
 十一 満月菩薩
 十二 大力菩薩
 十三 無量力菩薩
 十四 越三界菩薩
 十五 跋陀婆羅菩薩
 十六 弥勒菩薩
 十七 宝積菩薩
 十八 導師菩薩
 右の如き菩薩摩訶薩八万人と倶也
と記してある。この菩薩も霊界物語を全部通読されなば、何菩薩は何神何命に当たるやといふことは自ら判明することと思ひます。
 釈提桓因その眷属二万の天子と与に倶なり。復
  一 名月天子
  二 普香天子
  三 宝光天子 四大天王あり、その眷属万の天子と与に倶なり。
  四 自在天子
  五 大自在天子
 その眷属三万の天子と与に倶なり。
 娑婆世界の主
  六 梵天王
  七 尸棄大梵
  八 光明大梵
 等その眷属万二千の天子と与に倶なり。
 八の竜王あり、
  一 難陀竜王
  二 跋難陀竜王
  三 娑伽羅竜王
  四 和修吉竜王
  五 徳叉迦竜王
  六 阿那婆達多竜王
  七 摩那斯竜王
  八 優鉢羅竜王なり。
 各若干百千の眷属と与に倶なり。
 四の緊那羅王あり
  一 法緊那羅王
  二 妙法緊那羅王
  三 大法緊那羅王
  四 持法緊那羅王 なり。
 各若干百千の眷属と与に倶なり。
 四の乾闥婆王あり。
  一 楽乾闥婆王
  二 楽音乾闥婆王
  三 美乾闥婆王
  四 美音乾闥婆王 なり。
 各若干百千の眷属と与に倶なり。
 四の阿修羅王あり
  一 婆稚阿修羅王
  二 佉羅騫駄阿修羅王
  三 毘摩質多羅阿修羅王
  四 羅睺阿修羅王なり。
 各若干百千の眷属と与に倶なり。
 四の迦楼羅王あり、
  一 大威徳迦楼羅王
  二 大身迦楼羅王
  三 大満迦楼羅王
  四 如意迦楼羅王 なり。
 各若干百千の眷属と与に倶なり。
 韋提希の子阿闍世王若干百千の眷属と与に倶なり云々。
と、示されてある。これを以てこれを見る時は、大本教祖の筆先なるものは神の道とは云ひながら、最初より仏神一体の神理により、現代人の耳に入り易きやうに仏教の用語をも用ゐられてあることを覚り得らるるのである。明治二十五年正月元日に初めて艮の金神様が出口教祖に神懸された時の大獅子吼は、
 三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を懸け艮の金神世界を守るぞよ云々。
 三千世界も仏教中の用語であり、艮の金神も神道の語ではない。須弥仙山は仏教家の最も大切にして居る霊山である。またミロク菩薩とか竜宮とか竜神とか、天子とか、王とか現はれて居るのは、悉く仏教の語を籍りて説かれたものであります。故に筆先にある王とは、八大竜王及諸仏王の略称であり、天子と云へば明月天子、普香天子、宝光天子、四大天王その他諸天子、諸天王の略称であることは勿論であります。自在天子、大自在天子、梵天王、その他王の名の付いた仏は沢山にあり、仏も神も同一体、元は一株と説いてある。また大自在天子のその眷属三万の天子と与に倶なりとあるを見れば天子とは即ち神道にて云ふ神子または神使であります。要するに、神の道、仏の道に優れたる信者の意味になるのであります。天子は、また天使エンゼルとキリスト教では謂つて居ます。大本の筆先は教祖入道の最初より仏教の用語で現はせられたのであるから凡て仏教の縁に由つて説明せなくては、大変な間違ひの起るものであります。王仁は弥勒菩薩に因める五百六十七節を口述し了るに際し、仏教に現はれたるミロク菩薩の位置を示すと同時に筆先は一切仏の用語が主となりて現はれて居ることを茲に説明しておきました。
 アヽ惟神霊幸倍ませ。
   大正十一年十一月四日
(昭和一〇・三・一七 於嘉義公会堂 王仁校正)



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