出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語12-0-11922/03霊主体従亥 序文王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
***教祖筆先と霊界物語の関係***
 教祖の筆先は純然たる経典ではない。太古の神々の活動を始め、現在未来の神界の活動を、断片的に示した台詞書にすぎない。これを一つに取りまとめてその真相を劇化して、完全に世人に示すのが霊界物語の大使命である。
 霊界物語は歴史でもあり、教訓でもあり、教祖の筆先の解説書であり、確言書であり、大神劇の脚本である。
名称


 
本文    文字数=8279

序文

 教祖御筆先と霊界物語に就て、少しく所感を述べて置きます。
 抑も教祖の手を通して書かれた筆先は、到底現代人の智識や学力でこれを解釈する事は出来ぬものであります。如何となれば、筆先は教祖が霊眼に映じた瞬間の過現未の現象や、または神々の言霊の断片を惟神的に録したものですから、一言一句と雖もその言語の出所と時と位置とを霊眼を開いて洞観せなくては、その真相は判るものではありませぬ。これを今日の演劇に譬て見れば、艮の金神の筆先の名の許に、塩谷判官高貞の言語もあれば、高野師直、大星由良之介、大野九太夫、千崎弥五郎、早野勘平、お軽、大野定九郎、加古川本蔵、桃井若狭之介などの役者が各自に台詞を使ふのを、由良之介は由良之介一人に対する台詞、九太夫は九太夫一人のみの台詞を集めたのが、教祖の筆先であります。所謂芝居の下稽古の時に、各役者が自分の扮すべき役目の台詞のみを読み覚ゆるための抜書のやうなものであります。故に、実際の霊界にある神劇を目撃したものでなければ、筆先を批評する事は出来ませぬ。例へば大星由良之介の台詞の筆先を見れば、実に感心もなし忠臣義士の模範とする事も出来ますが、これに反して九太夫の台詞を記した筆先を見る時は、実に嘔吐を催す而已ならず、実に怪しからぬ筆先に見えるのであります。故に神様は、三千世界の大芝居であるぞよと、筆先に書いて居られます。その各自の台詞書を集めて、一つの芝居を仕組むのが緯の役であります。故に霊界物語は筆先の断片的なるに反し、忠臣蔵の全脚本とも云ふべきものであります。筆先の中にも、智恵や学ではこの筆先は到底判るもので無い、因縁の霊魂に神界の実地が見せてあるから、その者と直とでなければ筆先の精神は判らぬぞよ、と記してあるのを見ても判りませう。また時と処と位置とに因りて、筆先の文句に異同あるのも当然である。軽々しく筆先は人間の論評すべきものではありませぬ。筆先は決して純然たる教典ではありませぬ。
 要するに、太古の神々の活動を始め、現在未来の神界の活劇を、断片的に示した台詞書きに過ぎませぬ。これを一つに取まつめてその真相を劇化して、完全に世人に示すやうにするのが霊界物語編纂の大使命なのであります。右様の性質の筆先を一所に集めて、神劇の真相を世に発表せむと努力する緯役の苦心をも覚らずに、緯役が完全な筆先をワヤに作りかへたなぞと批評する人は、筆先の真の価値なりまた神の御意志を以て、自分の意志と同一に見做した人々の誤りであります。教祖の書かれた筆先(台詞書)の九太夫の巻を見た人は、キツト艮の金神の教は悪であると云ふであらう。由良之介の台詞書を見た人は、定めて艮の金神の教を立派な結構な教であると云ふでありませう。この台詞書を整理して立派な神劇を組立てた上、始めて平民教育の芝居ともなり、バイブルともなるのであります。九太夫一人の台詞を見たり、由良之介一人の台詞書のみを見て、善だの悪だの忠だの不忠だのと批評するのは、批評する人が間違つて居るのであります。故に緯役は大正十年旧九月十八日、教祖の神霊の御請求に由つて、病躯を忍び臥床のまま霊界物語を口述することと致しました。しかるに霊界物語は簡明を欠くとか、冗長にして捕捉する事が出来ないとか、複雑これを読むの煩に堪へないとか、神劇としても俗化して居て神威を冒涜するものだとか、甚だしきは緯役の精神そのものの発露だとか、種々雑多の小言を聞きますが、緯役として霊界物語を口述し始めたのは、今迄の信徒の方々が筆先の台詞書しかも九太夫の台詞を真の神の教の如く軽信された結果、昨春のやうな事件を突発するやうになつたのだから、過失を再びせざらしめむとして、病中を忍び本物語を著述する事に成つたのであります。決して道楽や物好きでコンナ事が出来ませうか。
 馬琴は二十八年間を費して八犬伝を作りました。この霊界物語は、僅かに一年足らずの間にて口述日数は百五十日、しかも八犬伝の三倍を超過して居る大部なものであります。何れも人間の頭脳の産物でない事は、少し著述に経験ある文士なれば一目瞭然たるべきものだと考へます。また中には、霊界物語は神幽現三界の歴史であつて、家庭の宝典たる教化的価値なきものだと云つて居る布教師があるさうですが、未だ霊界物語を読了せないからの誤りであります。第一巻より第四巻まで位を読むだ人は、教訓的よりも歴史的方面の多いものと思惟されるのは寧ろ当然だろうと思ひます。しかし霊界物語は歴史でもあり、教訓でもあり、教祖の筆先の解説書であり、確言書であり、大神劇の脚本であります。この物語によらなければ、教祖の筆先の断片的(台詞書)のみにては、到底神界の御経綸と御意志は判るものでは無いのであります。
 霊界物語の文句の中に、一旦帰幽した神人が時代不相応の後世まで生きて居て種々の活動をしたり、またヱルサレムの都が現今の小亜細亜の土耳古であつたりするなどは、現代人の尤も疑ひの種を蒔くものと予期して居ます。しかし何を謂つても数十万年前の物語であり、また霊界を主として口述したのですから、不審の点は沢山にあるでせう。口述者自身においても不審、不可解の点は沢山ありませう。筆先と霊界物語とは経緯不離の関係にある事を考へて貰ひたい。また今まで発表した神諭は、由良之介や千崎弥五郎の台詞のみを教訓として発表したものであります。たまに九太夫の台詞のやうに人によつて感じられる点があるやうなのは、その人が神劇の全体を見て居ないから起る誤解であります。由良之介でも七段目の茶屋場あたりでは、一寸見ると九太夫式の言辞を弄してゐる。されど彼の心中は決して悪ではない。緯役として今まで発表した神諭を、九太夫式の点があるやうに解するのは、霊界の真相が解らないからであります。何れも緯役として解決の着かないやうなものや、悪言的の筆先は決して発表はして居ませぬ。精神のゆがみたる人が見たら悪く見えるであらうが、緯役として神界の実地に触れ根拠ある点のみを選抜して神諭としたまでであります。悪く見ゆるのは神霊の活劇を見ないからであります。故にその蒙を啓くために、本書を発表する事となつたのであります。
 中には『筆先は一字も直すことは成らぬぞよ』とあるのを楯に採り、緯役が直したのが不都合だと謂つて居る人がある。これも一を聞いて二を知らぬ人の誤りである。変性女子は緯役だから書き放題に出口直に書かしてあるから、女子がよく調べて直して出して下さいと示してある。これが緯役としての使命である。『一字も直す事は成らぬぞよ』と示されたる意義は、変性女子以下の当時の筆記者に対して示された筆先の詞である。これと混同して緯役を云々するのは少し早計でありませう。



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