出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語08-6-411922/02霊主体従未 言霊解三王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
 伊邪那岐命それを見て逃げる。伊邪那美命はヨモツシコメに後を追わせる。
名称

天津神 大雷 奇魂 地津神 黒雷 教祖 拆雷 土雷 鳴雷 日の大御神 伏雷 火雷 八の雷神 予母都志許売 若雷
石屋 大本 三千世界 神界 神諭 体主霊従 大統領 天国浄土 五六七の神政 霊主体従
 
本文    文字数=12245

第四一章 言霊解三〔三九一〕

 次に『左の御美豆良に刺させる湯津津間櫛の男柱一つ取り闕きて一つ火ともして入り見ます時に』といふ、この左は上で、右は下であつて、左の方といふのは霊のかがみといふ事であります。
 湯津津間櫛といふのは、総ての乱れを解きわけるといふ意味で、奇魂のくしといふ事にもなるのであります。この櫛の歯の一本を闕て、その上に火を点して見られたものであります。即ち暗黒世界に一寸霊の火をつけて見られた。一つ火は一つの目で、日本の日の丸の国旗といふことになります。この火といふものは、皆のものが明光を尋ねて慕ひ寄つて来るといふ意味になるのであります。即ち夏の虫が火を見て寄つて来るとかまた航海者が一つの燈台を見て常に港へ寄つて来るといふやうなもので、誠の神の霊智霊光の発動であります。
 くしは明智を以て照すといふ事で、日の神の御光といふ意味になります。即ち日は天に一つしかないやうに天津日嗣も、世界に一人しか居られないのであります。いはゆる日の大御神の御聖徳を輝かし奉るといふことが一つ火といふ意味になるのでありまして、この日の大御神の大御心を以て、世界中を調べて見る即ち日本の国の八咫の鏡で照して見ると、蛆がたかつてとどろいて居つたのであります。人間の形をして居つても、その心は蛆と同じであるといふ事で、勝手気儘なことをしたり、また言つたりして居るといふことであります。
 次に『御頭には大雷居り』といふ事は、頭すなはち体主霊従国の主権者とか、大統領とかのことで大きな雷とは、悪魔とか、また強い不可抗力とかいふことであります。よく人が叱られた時には、雷が落ちたと申しますが、多人数の中に天から雷が落ちたといふ意味であります。
 それから『御胸には火雷居り』といふことは、言霊上、頭は天で、胸は大臣で、火の雷とは悪い事を考へて居るものが沢山に潜んで居る事であります。これを火の雷といふのであります。
 次に『腹には黒雷居り』と云ふことは、よく人の悪いものを指して腹黒いといふやうに、国民の中堅が悪に化つて居るといふ事であります。
 次に『御陰には拆雷居り』といふのは、国民にたとふれば、百姓とか労働者といふ事で、拆くといふのは引裂くといふ意味であります。
 次に
『左の御手には若雷居り、右の手には土雷居り』といふ事は、即ち左の手は神であれば天津神であり、人民であれば上流社会といふことで、また右の手といふのは神であれば地津神であり、人民にたとふれば下等社会といふ事になります。また若雷の若といふのは本当に未だ熟せない、思想が固まらぬといふことで、富豪階級の青年とか、大学生とか、華族の令息とかいふ意味で、いはゆる上流社会の若者の精神行為が荒れすさんで居るといふ事であります。次に土雷の土は百姓といふ意味で、地主と小作人との軋轢が絶間なくあるといふやうなことであります。
『左の足に鳴雷、右の足に伏雷居り』と云ふ、この鳴雷といふのは、日本でも外国でも、軍隊の中に鳴り渡る悪い思想が、空から下る大雷悪神の如く、伝はつて居るといふ意味であります。右の足に伏雷といふのは、伏せてある悪魔といふことで、雷の中でも最も恐ろしいものであります。即ち人民にたとへると悪化せる労働者とか社会主義者などといふことで、悪思想の労働者がダイナマイトやその他を以て、破壊的陰謀を企てて、隠れて時期を待つて居るといふやうな意味であります。実に今の世の中はこの通りになつて居るのでありまして、何千年前に書かれたものが今日によく適合して居るのであります。
 実にこの古事記は何時読んでも適合するものでありまして、徳川時代にも適合すれば、現代にも適合し、将来のことにも当はまるもので、古今を通じて謬らざる所の実に尊き神文なる所以であります。
 今日吾人が天下国家のために、神の大御心を奉戴して、我が同胞を初め世界を覚醒し、以て天国浄土の安楽国を建設せむとする、真如の大活動を天下挙つて阻止妨害せむとするは、恰もこの八種の雷神に攻撃されて居るので在ります。大本は一つ火、すなはち霊主体従の神教を天下に宣伝するや、頭に生れる大雷なる大圧迫が大本の頭上に落下して、天下無二なる純忠純義の神諭の発行を禁止し、今日到る処に、大本信仰者に妨害を与へ、神霊界を購読せぬが汝のためだとか、大正日日新聞を読まないが良いとか、百方手を尽して吾人至誠の行動を極力妨害しつつあるのは、頭に大雷鳴り居ると同様の意義であります。
 次に『御胸には火の雷居り』と云ふ事は、今日学者階級とか、知識階級とか、大宗教家とか云ふ所の偽聖者が、挙つて大本の出現を忌み嫌ひ、百方火の如き激烈なる反対演説や、反対論を新聞や雑誌書籍等に掲載し、以て天下の思想界を攪乱せむとする石屋の手先が口の続くかぎり筆の続く極み、大々的妨害しつつあるは、即ち胸に居る火の雷であります。大本の機関新聞雑誌を教育家は読むなとか、軍隊内には入れては成らぬとか、吾人の正義公道の宣布を遮断せむとするは、いはゆる火の雷居りと云ふ事であります。
 次に『御腹には黒雷居り』と云ふ事は、大本の内部へ、ある種の野心家が或る目的のために、表面信者と見せ掛け、所在利己的行動を企画して、神界より看破され、除名の処分を受けたものが、百方有りもせぬ事を、犬糞的に喧伝する悪人輩の沢山潜伏して居る事であります。現在の大本の内部にも、表面は熱心な信者らしく見せ掛け、神様を道具に使つて役員となり、各地の教信徒を籠絡しつつ在るのも、いはゆる大本における『御腹には黒雷居り』の意味であります。
 大本内部へ深く浸入し神様を担ぎ出して自己利益のために蠢動する偽信者や、偽役員が蛆虫然として、平気な顔をして活動して居り、幹部の役員を、目の敵のやうに言ひ罵る不正者の現出し、または潜在しつつあるのは即ち黒雷が居ると云ふ事であります。国家にしても、またこれと同様である事を忘れてはならぬのであります。
 次に『御陰には拆雷居り』といふ意味は、これを大本にたとへると、青年の中に潜んでゐる不正分子が種々の良からぬ言行を敢てし、折角研きかけた善良分子までも悪化せしむる如き行動を採り、信者の信念力を一角から、破壊せむとするやうな下級の連中である。大本の基礎となり、将来の柱石となる連中の、悪化的行動がいはゆる拆雷居りといふ事である。これを現代の国家に譬ますと、下級農民や労働者階級の不良分子の悪化的行動であります。
 次に『左の御手に若雷居り』といふ事を大本において対照して見ると、幹部の位置にある若手連中の誤解的行動である。あまり考へ過ぎ気を利かし過ぎて、間の抜けた言行を敢てするのが、左の手の若雷であります。これを世界に対照すると、若年の士官や、法官や、大学生の、天地惟神の大道を無視する連中のことである。広い天下には三人や五人は無いとも限らない。大本にも、一人や二人は、無いとも言はれぬのであります。
 次に『右の御手には土雷居り』と云ふ事は、これを大本内で譬ると、地方の若い信者や、青年の中の不良分子であつて、その言行は常に大本の経綸を、大々的妨害する連中の事であります。これを世界に譬ると、各地方に散在する労働者とか、工夫とか、小作人とかの不健全な分子の、不良な計画を企ててをる連中の悪行悪言であります。
 次に『左の御足には鳴雷居り』と云ふ事は、大本で言へば、悪社会と戦闘する所の言論機関を云ふので、布教者や新聞社員等に当るので、その中に不良分子が混入して、一生懸命に尽力してゐながら却つて神界の御経綸の妨害して居るものの潜み居ると云ふ事であります。これを世界に対照する時は、陸海軍の中にも種々の危険なる思想や主義が潜入して居ると言ふ事であります。
 次に『右の足には伏雷居り』と云ふ事はこれを大本で譬ると、『禍は下から』と云ふ譬の通り、神の道も、人の道も、何も分らぬ不良なる偽信者が幹部から何か一度親切上から忠告を受けると、その親切を逆に感受し、非常に立腹して何か幹部の連中に欠点でも在つたら、これを発表てやらうと自分の過失を棚へ上げて置いて、上の役員ばかりを恨んで居る連中のやうなものであります。これを世界に対照する時は、政府顛覆の陰謀を企てて居るとか、爆弾を密造して、機を見て暴動を開始せむとか、常に考へてをる不良分子が世界には潜んで居る、といふ意義を指して、『右の足には伏雷居り』と言ふのであります。
『是に伊弉諾命、見畏みて逃返ります時に、その妹伊弉冊命、吾に辱見せたまひつ、と言したまひて、即ち黄泉醜女を遣はしめて追はしめき』
 教組の御神諭に『神は世界の人民を助けて、松の世神の世と立替へて、立派な水晶の世界に致してやりたいと思うて、三千年も世に隠れて居りたが、モウかうして置いては世が立たぬやうに成りたから、神が表に現はれて三千世界を善一筋の五六七の神政に致して、神も、仏事も、人民も勇んで暮す、結構な神国の世に致して喜ばしたいと思うて苦労を致して居るが、神が思うたよりも非道い余りの曇りやうで、そこら辺りが汚うて片足踏み込む処も、指一本突く場所も無いとこまで腐りて居るから、神も手の付けやうが無いなれど、神は世界を助けたいのが、一心の願ひであるから、泥にまみれて人民を助けたさに世に落ちて苦労艱難を致して居るぞよ』との御言葉は古事記御本文の『見畏みて』と云ふ事である。『逃げて返ります時に』と云ふ事は、余りの矛盾撞着に呆れられた事である。例へば至誠至忠思国のために、日夜辛酸を嘗めてをる吾々に対して、却て危険人物扱ひをなし布教先まで、監視を附せられるが如きは実に当局の本心なるかを疑はねばならぬやうになるのである。
 斯様なる社会の矛盾に、神様も驚いて跣足で御逃げになると云ふ事が『見畏みて逃返ります』と云ふ事になるのであります。

(大正九・一一・一 於五六七殿講演 外山豊二録)

(大正一一・二・一一 旧一・一五 谷村真友再録)



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