出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語07-0-31922/02霊主体従午 総説王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
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あらすじ
***見真実と未見真実***
 教祖は、明治25年より大正5年まで前後25年間、未見真実の境遇にありて神努に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである。女子は入道は明治31年であるが、未見真実の神業は、同33年までの全2ケ年間で、その後は見真実の神業である。霊的にいふならば、教祖よりも18年さきがけて、見真実の境域に進んでいた。

***霊界物語の解釈***
 霊界物語は、人智をもって判断することはできませぬ。たとへ、編集人、筆録者の解説といへども、肯定してはなりませぬ。ただ単に文句のまま素直に読むのが、第一安全であります。
名称


 
本文    文字数=4041

総説

 神界の示教は、到底現代人のごとく、数理的頭脳の活力を以て窺知することは出来ないものである。神は言霊即ち道である。言葉を主として解すべきものである。神諭の三月三日五月五日の数字についても、現代の物質かぶれをした人士は、非常な論議の花を咲かして居られるさうです。出口教祖の直筆の文句には『明治三十年で世の立替云々』と、明治三十三年ごろになつても、依然として記されてあるのを見ても、神界の示教の現代的解釈に合致せないことは明瞭であります。
 また教祖の直筆は所謂お筆先であり、そのお筆先を神示に随つて、取捨按配して発表したのが大本神諭である。これを経の筆先と称して、変性女子の緯の筆先と区別し、経は信ずるが、緯は信じないと謂つてゐる人々が、処々に散見されるやうですが、経緯不二の真相を知らんと思へば、教祖の直筆をお読みに成つたら判然するでせう。お筆先そのままの発表は、随分断片的に語句が列べられ、かつ一見して矛盾撞着せし文句があるやうに浅い信者は採るやうなことが沢山ある。また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します。
 変性女子のやり方について、今日まで誤解して居たといふ意味を書いて居られる。その未成品の御筆先しかも変性女子みづから取捨按配した神諭を見て、かれこれ批評するのは、批評する人が根本の緯緯を知らないからの誤りであります。私はもはや止むに止まれない場合に立到つたので、露骨に事実を告白しておきます。要するに教祖は、明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未見真実の境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである。女子は入道は明治三十一年であるが、未見真実の神業は、同三十三年まで全二ケ年間で、その後は見真実の神業である。霊的に言ふならば教祖よりも十八年魁けて、見真実の境域に進ンでゐたのは、お筆先の直筆を熟読さるれば判りませう。
 三千年と五十一年、三四月、八九月、正月三日、三月三日、五月五日なぞの数字に囚はれてゐた、いはゆる○○派、○○派の説明に誤られてはならぬ。五十一年の五は、厳の意味であり、十は火水、または神の意、一年は始めの年の意味である。要するに三千年(無限の年数)の間の、大神の御艱苦が出現して、神徳の発揮さるる最初の年が、明治二十五年正月からと云ふ意義である。九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である。また正月三日の正は、一と止と合した意味であり、月は月光、三は瑞または栄え、日は輝くことで、神徳の完全に発揮されることを、正月三日といふのである。故に神諭の解釈は容易にできない。また筆先と神諭の区別も弁へて読ンで貰はねばなりませぬ。
 この霊界物語も、人智を以て判断することは出来ませぬ。たとへ編輯人、筆録者の解説といへども、肯定しては成りませぬ。ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全でありますから、一寸書加へておきます。
 大正十一年瑞月祥日
    於瑞祥閣 王仁識



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