出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
神の国 善言美詞は対者による 参照文献検索
キーワード: 愛について
備考: 月鏡 八幡-P.219 天声-P.114 昭05-01
ルビ付き本文:
王仁三郎資料センター
 
本文    文字数=1290

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 善言美詞は対者によることであつて、車夫が同士にたいしては車夫の言葉、ちょつと聞いてはなはだ悪言暴語のような言葉でも、それが善言美詞であるし、地位名望のある人たちの間には、それそうとうの美しい言葉がかわされねばならぬ。
 「まだ生きてけつかるのか、米が高くて困るぞ、よう」というと、「やあ手前もまだ生きていたのか。」
これは私が荷車をひいていた時代に、これらの社会においてたがいにとりかわさるる言葉であつた。労働者たちの間の善言美詞である。こうした暴い言葉の底にひそむ、友を思うの情はたがいにじゆうぶんに相通じ了解されるのである。もしこれらの人が切り口上や、ていねいな言葉を使いだしたら敵意をふくんでいるのである。舌のもとには心ありとの神歌のごとく、要は心の問題で、敬愛の心からでる言葉は、表現はまずくとも、善言美辞となってあらわるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは阿諛諂佞となり、欺言、詐語となる。
(善言美詞は対者による、「神の国」昭和5年1月)