出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-5-281922/10舎身活躍丑 金明水王仁三郎参照文献検索
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第二八章 金明水〔一〇六五〕

 明治三十四年旧五月十六日、出口教祖始め、上田会長、出口澄子、四方平蔵、中村竹蔵、内藤半吾、野崎宗長、木下慶太郎、福林安之助、竹原房太郎、上田幸吉、杉浦万吉ら一行十五人は、皐月の曇つた空を目当に徒歩にて出雲の大社へ神明を奉じて参拝することとなつた。この参拝が無事に済めば、何もかも神界の因縁が判り、大望が成就するものだと、役員一同の考へであつたらしい。
 先づ立原で一宿し、それから十里ほど歩いては泊りなどして、漸く但馬の八鹿へ着いた。さうすると道々役員連の空想的談話が始まつて来た。そこで喜楽は、
喜楽『そんな事思うて居るとあてが違ふ』
と一口云つたら大変に役員の機嫌を損じ、喜楽に対して余程冷淡な扱ひをするやうになり、『ナアニお前等がそんなことが分るものか、御筆先に出雲へいつたら因縁が分ると書いてある』……と威張りちらす。教祖は教祖で、出雲へさへいつてくれば皆の改心が出来る……とすましたものである。途中で四方春三の亡霊が役員にうつつて、澄子と会長との間を不和ならしめやうとかかり、両人はその亡霊のために非常に悩まされ、途々議論を衝突させながら、日を重ねて鳥取に着いた。それから千代川を汚い舟に乗つて加露ケ浜に出で、加露ケ浜から舟に乗つて三保の関に着かうと計画したのである。
 恰度海が荒れて三日間船を出す事が出来ず、加露ケ浜の旅館で一行十五人が泊り込み海上の凪ぎ渡るのを待つこととした。その時恰も海軍中将伊東祐亨氏が山陰沿海視察のためにやつて来て同じ宿屋に泊つてゐた。教祖が筆先を一枚書いて、伊東中将に宿屋の亭主の手から渡され、よく査べてくれ……といはれたが、それきりで何の返答も聞かなかつた。
 喜楽は夜中頃に妙な夢を見た。それは海潮が際限もなき原野に立つてゐると、東の方から大きな太陽とも月とも分らぬが、昇られてだんだんこちらへ近付き、澄子の懐へ這入られた夢を見て目がさめた。この月すでに澄子は妊娠してゐたのである。それから翌年の正月二十八日に女子が生れたので、朝野に立つてゐた夢を思ひ出し、朝野と名をつけた。これは在朝在野の人々を済度する子になるだろうといふ考へと二つをかねて命けたのであつた。さうすると朝野が四つになつた年、自分から……わしは朝野ぢやない直日ぢやと言ひ出したので、直日と呼ぶやうになつたのである。三日目の朝、またもや磯端を伝ひに十里ばかり西へ進んで一泊し翌朝船を仕立てて、三保の関に渡り神社に参拝し、中の海宍道湖を汽船に乗つて平田に上陸し、徒歩にて大社の千家男爵の門前の宮亀といふ旅館に一行十五人投宿した。
 二三日逗留の上神火と御前井の清水、社の砂を戴き、二個の火縄に火をつけて帰途につき、稲佐の小浜から松江丸といふ汽船に乗つて境港につき、それから徒歩にて米子に至り、一日ばかり歩いてまたもや今度は帆船に乗り、加露ケ浜の少し東、岩井の磯ばたにつき、行がけに泊つた駒屋の温泉場に再一泊し、またもや山坂を越えて旧六月の四日福知山まで、数百人の信者に迎へられ、漸く綾部へ帰つて来た。途中澄子は産婦に免がれがたきツワリで非常に苦み、石原から時田やその外の大男の背中に負はれて帰つて来た。
 それからその火を百日間埋み火として役員二人が昼夜保存し、百日目に十五本の蝋燭に火を点じ、天照大御神さまへ捧げることとした。また砂を本宮山や竜宮館の周囲に撒布し三四ケ所の井戸に水を注ぎ、大島の井戸へ天の岩戸の産盥の水を一所にしてほり込み、金明水と名をつけたのである。その水を竹筒に入れその年の旧六月八日に教祖は会長、澄子その他四十人ばかりの信者と共に沓島へ渡り、その水を海に投じ、この水が世界中を廻つた時分には日本と露国との戦争が起るから、どうぞ大難を小難に祭りかへて貰ふやうに、元伊勢の御水と出雲の御水と、竜宮館の御水と一所にして竜神さまにお供へするといつて祈願をこめて帰つて来られたが、それから丁度三年目に日露戦争が起つたのである。
 出雲参拝後は教祖の態度がガラリと変り、会長に対し非常に峻烈になつて来た。そして反対的の筆先も沢山出るやうになつて来た。澄子が妊娠したので、最早会長は何程厳しく云つても帰る気遣はないと、思はれたからであらうと思ふ。それまでは何事も言はず何時も役員が反対しても弁護の地位に立つて居られたのである、いよいよ明治卅四年の十月頃から、会長が変性男子に敵対うといつて、弥仙山へ岩戸がくれだといつて逃げて行つたりせられたので、役員の反抗心をますます高潮せしめ、非常に海潮、澄子は苦心をしたのであつた。それから大正五年の九月九日まで何かにつけて教祖は海潮の言行に対し、一々反抗的態度をとつてゐられたが、始めて播州の神島へ行つて神懸りになり、今迄の自分の考が間違つてゐたと仰せられ、例の御筆先まで書かれたのである。
 今日までの経路を述べ立つれば際限がなけれ共ただ霊界物語を口述するに当り、大本の大要を述べておくのも強ち無用ではないと信じ、ここにその一端を古き記憶より呼び出し、述ぶることとした。まだまだ口述したきことは沢山あれ共、紙面の都合によつて本巻にて止めおくことにする。後日折を見て詳しく発表するかも知れぬ。
 惟神霊幸倍坐世。

(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 松村真澄録)
(昭和一〇・六・一〇 王仁校正)



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