出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-5-271922/10舎身活躍丑 仇箒王仁三郎参照文献検索
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第二七章 仇箒〔一〇六四〕

 明治卅八年二月の事であつた。大本の四方平蔵、中村竹蔵その外十人の幹部は本年中に世の立替立直しが完成し、五六七の世が出現すると、脱線だらけの法螺を吹き廻り、日露戦争の最中なので、お筆先の神示が実現すると、大変なメートルをあげて逆上せあがり、中村竹蔵の如きは筆先の文句の中に、道の正中をまつすぐに歩けといふ語句のあるのを楯にとり、暗やみの世の中といふ文句を読み覚えて、昼の真最中に十曜の紋のついた提灯に蝋燭をとぼし、大道の正中をすました顔して、牛車が出て来うが、何が来うが、少しもよけず、左の手に提灯を持ち、右の手に扇子をすぼめて握り、肱を振つて歩くので、牛車の方からよけると、神さまの御威勢といふものはエライものだ、誠の道の正中さへ歩いて居れば、どんな者でもこの通よける……とますます図に乗つて、往来の迷惑も構はず、筆先の文句を高らかに読み上げながら、大道を濶歩するといふ逆上方であつた。ある時農具を車に満載して売りに歩きながら、元伊勢の方面まで宣伝に往つて居つたが、陰暦二日の月が見えたといふので、サア大変だ、三日月さまは昔から拝んだ事があるが、二日のお月さまが拝めたのは全く世の変るのが近よつた印だ、グヅグヅしては居れぬと、金の財布も荷物も車も、由良川へ放り込み、一生懸命に綾部へ走せ帰り、大変大変と連呼しながら、二階に斎つた神壇の前へ行つて、一生懸命に祈願を込め、フツと顔をあげると、そこに大きな水鉢に清水が汲んで供へてあつた。二階の窓があけてあつたので、雀が飛込み、水鉢の上に糞を一片たれたのが面白く水に浮いてるのを、フト眺めて、……ヤア愈立替が始まつた。水の中に優曇華の花が咲いてゐる……とさわぎまはるので、四方平蔵始め幹部連中が、神前へ進んでこれを眺め、ますます有難がつて、涙声になり、祝詞を幾回となく奏上し、六畳の離に居つた喜楽の前へ出て来て、中村竹蔵は肱を張り、さも鷹揚に、
中村『コレ会長サン、よい加減に改心をして、小松林サンに去んで貰ひ、早く坤の金神さまになつて、女房役をつとめて貰はぬと、時機が切迫致しましたぞ、昨日も昨日とて、元伊勢から帰つて来る際二日月が拝めるなり、今日はまたお供への水の中に優曇華の花が咲きました、グヅグヅしては居られますまい、早く改心なされ』
と声高に叱り附けるやうに云ふ。そこで喜楽は、
喜楽『二日月さまを拝めたのは別に珍し事はない、自分達は穴太に居つて、チヨコチヨコ拝んだ事がある、お前達はこんな山に包まれた狭い所に暮らしてるから、二日月さまが拝めたというて騒ぐのだらうが、そんな馬鹿な事を人に言うと気違にしられるから、どうぞそれだけは言はぬやうにしてくれ』
といはせも果てず、中村は口を尖らし、
中村『コラ小松林、昔から三日月といふ事はあるが、二日月といふ事があるかい、穴太で二日月をみたなんて、そんな出放題な事をいうて、水晶の霊を曇らさうとかかつてもだめだ。世の立替が近よつたといふ事を、艮金神変性男子の御霊が大出口神とあらはれて、日出神と竜宮さまの御手伝で立替立直をなさる時節が来たのだ。早く小松林が改心を致して、会長の肉体を去り、園部の内藤へ鎮まりて、坤の金神さまの肉のお宮とならぬ事には、世界の神仏事人民が何ほど苦むかしれぬぞよ、コラ小松林、それが嘘言と思ふなら、一寸二階の御神前へ来てみい、水晶のお水に優曇華の花が咲いてる、それを見たら如何な小松林でも往生せずには居られまい』
と得意になつて喋り立てるので、不思議な事をいふワイ、またロクな事ではあらうまいと、早速二階へ上つて見ると、雀の糞がパツと水にういて、白く垂れ下り、丁度優曇華の花のやうに見えて居る。喜楽は一寸木の箸の先でそれをすくうて、中村の鼻のそばへつきつけて、
喜楽『オイこれは優曇華ぢやない、雀の糞だ』
といつた所、中村は妙な顔をしてだまり込んでしまうた。さうすると外の役員が約らぬ顔をして、
『どうぞ会長サン、こんな事を人にいはぬやうにして下され、笑はれますから』
と頼み込む可笑しさ。
 これより先中村の女房であつた菊子といふのは、中村が毎日日日商売もせず、脱線だらけの事をいひ歩くので、幾度となく意見をしたが、とうとう中村は怒つて、『お菊に小松林の悪霊がついた』……といひ出し、放り出してしまつた。そして教祖の身内から女房を貰はうと考へてゐたが、福島久子を八木から引戻して自分の女房にしやうと企んでゐたのを、喜楽に妨げられて目的を達せず、それより中村と久子とは大変に喜楽のする事成す事に一々妨害を一層猛烈に加へるやうになつて来た。
 四五年たつた明治卅八年の頃には愈中村に教祖から妻帯をせよと、命令されたので、役員がよつてかかつて、いろいろ信者の娘を中村に紹介したが、どうしても首をふつて応ぜなかつた。中村は澄子の姉の竜子を女房に貰はうと、暗中飛躍を絶えずやつてゐたからである。竜子も心の中にて中村の女房になり、改心をさして、会長の云ふ事を聞かすやうにせうかとまで考へてゐた。しかし中村は竜子を自分の妻となし、喜楽や澄子を退隠さして威張つてみやうという野心があつたのである。教祖から竜子の夫は中村竹蔵、竹原房太郎、木下慶太郎の三人の内から選めとの命令が下つたので四方平蔵その他の幹部連が、とうとう中村の妻にすることにきめてしまつた。今でさへ喜楽や澄子はこれだけ圧迫や妨害をうけてゐるのに、中村が姉の婿となつて、噪やぎ出しては堪らぬと思ひ、教祖に向つて、
喜楽『どうぞ今日限り澄子と離縁して下さい、帰ります』
といつた所、教祖も大変に当惑し、四方平蔵を呼んで、
教祖『どうぞ会長サンの、この事は、意見に任してくれ』
といはれたので、幹部の中でも少しく喜楽の言ふ事を耳に入れる木下慶太郎を養子にしたがよいと言つたので、竜子を別家させ木下を養子に入れる事とした。そして八木の福島久子の股肱となつて喜楽の布教先を古物屋に化け込んで、軒別に邪魔しに歩かしてゐた中村小松といふ女を中村の女房にした。それから中村はスツカリ失望落胆の結果、発狂気味になり、遂には自分の昔からの陰謀を、あたりかまはず自白するやうになつて来た。
 余り中村は神さまに反対するので、神罰を受けて糞壺へはまつて死んでしまふといふ事を明治卅七年の四月三日の夜、神さまから夢に見せられ、道の栞に書きとめておいたが、とうとう明治卅九年にその夢の如くになつて狂ひ死にをしてしまつたのである。
 中村と八木の久子とは始終往復し、内外相応じて、会長の排斥運動を続行してゐた。久子は最近に至るまで、ヤハリ喜楽を敵視して廿四年間不断の反対運動を継続してゐたのである。
 かういふ具合で、どうしても迷信家連が会長の説く所を一つも用ひず、そんな書物や学にあるやうな教は悪の教だからと云つて、一人も聞いてくれぬので、澄子と相談の結果、再宣伝に飛出し、村上房之助が漸く目が醒めかけたので、村上を従へ、八木まで行つて見ると、角文字は一切使ふ事はならぬ、外国のやり方ぢやと、盛んに攻撃、喜楽の書いた神号までも焼きすてさしたくせに、八木の神前には角文字で、艮金神国常立尊と太く記した提灯が一対ブラ下り、その外の神具にも残らず、角文字が記してあつた。そこで喜楽は、
喜楽『福島サン、この字は外国の文字で、神さまにお気障りにはなりませぬか』
と尋ねてみると、福島はビリビリと眉毛を上げ下げし、
福島『この角文字はお前に懸つた小松林が書いたのとは違うから差支はない。信者が真心であげたのだから、喧しくいふな、仮令外国の字でも日本人の手で書いたのだ』
と勝手な理屈をまくし立てる。そこで喜楽は村上と二人、八木を立出で、北桑田方面へ布教に行つた。それから二三ケ月経つて八木へ立よつて見ると、福島は痩衰へ、骨と皮とになり、夫婦が涙ぐんで控えて居る。様子を聞いてみると、艮金神さまの命令で、三十日の間一日に一食の修行をなし、あと三十日は生の芋をかぢり、あと三十日は水ばかりを飲み、あと十日は水一滴も飲まずに修行をした。今日が丁度百日の上りで、福島寅之助は、これから天へ昇つて、紊れた世の中を水晶に致すお役になつたから、今女房と別れの水盃をした所だ、何だか体がフイフイとして、独りで空へあがりそになつて来たといつてゐる。喜楽はそれとはなしに丸山教会のある教師が名古屋で屋上三丈三尺の高台を作り、これから天上するというて、二百人ばかりの信者は三丈三尺の高台の下から、天明海天天明海天と祈つてゐた。教師はいつまでたつても黒雲が迎ひに来ぬので、気をいらつて宙に向つて飛上つた途端に、高台から転落し、大腿骨をうつて負傷をしたといふ事がその頃の新聞に出てゐたので、それを話して聞かし注意をすると、妙な顔して次の間へ入つてしまひ、力のない声で、
福島『今日の十二時に天上をさす所であつたけれど、小松林の悪神が来たによつて、一時間仕組をのばしたぞよ。早く家内の久どの小松林を去なせよ』
と呶鳴つてゐる。喜楽は福島久子に余り気の毒でたまらぬので、曲津がだましてるのだといふ事も出来ず、大方霊が天へ上るのだらうから、肉体に気をつけて、松の木へでも登りそうだつたら止めなされ……と忠告をして帰つたものの心配でたまらぬので、八木のある茶店に休んで、福島の様子を遠くから考へて居た。もし松の木へでも上りそうになつたら止めに行かうと思うたからである。
 そしたら福島の守護神は……都合によつて仕組を延ばした、明日の朝まで延ばした、明後日まで延ばした、と一週間ほど延ばした。出鱈目な託宣をしたので、福島も気がつき、久子を八木の町へ買物にやつた不在の間に、四五年もかかつて昼夜せつせと書いた自分のお筆先を一所によせ、石油をかけて一冊も残らず焼いてしまひ、
福島『コラおれを騙しやがつた悪神奴が』
といきなり御神前をひつくりかへし、神さまの祠を残らず外へ叩き出してしまうたといふ面白い物語もあつた。
 それからまた綾部より役員が出張して、神さまを斎り直し、盛んに会長の攻撃を続行してゐた。会長は澄子と相談の上、嵯峨京都伏見の支部などへ気をつけてやらうと浦上を伴れて、綾部を立出で、園部に一泊してそれから八木へ立寄ると、福島寅之助が矢庭に奥から飛んで来て、
福島『ヤア四足が来よつたシーツシーツ』
と追ひまくり、ピユーピユーと痰を吐きかけ、
福島『サア早う去ね去ね、汚らはしい』
と箒ではき立てる。モウかうなつては、何程事を解けて諭してもダメだと思ひ、匆々にここを出立して、嵯峨の信者の友川弥一郎といふ家に出張した。ここには支部が拵へてあつて、喜楽の教を遵奉してゐた熱心な信者である。しかるに友川の態度がいつとはなしに、極めて冷淡になつて居るので妻君に聞いて見ると……、今朝大本から畑中伝吉サンが出て来て、今上田の貧乏神がお前の所へ来るだらうから、敷居一つまたげさしても汚れる、キツと貧乏するか、大病になるによつて、艮金神様や教祖の御命令で気をつけに来たのだといつて、帰らはりました、そしてこれから京都や伏見の方へ知らしに行くといつて出られました……と包まず隠さず述べ立てた。そこで海潮は浦上と共に京都の三ケ所の支部を尋ねて見たが、どこもかしこも箒で掃き出したり、敷居を跨げさしてくれぬ、仕方がないので、明治座の少し東の横町に畑中の親類で、高町といふ信者があるので、そこを訪問して見ると家内中二階へ上つてしまひ、首のゆがんだ、少し間のぬけたやうな女が一人、坐つて居る。それは畑中の妹でお鯛といふ女であつた。喜楽は、
喜楽『お鯛サン、高町サンは何処へ行つたかな』
と尋ねると、
お鯛『何処へ行つたか知りませぬ、ここ三日や十日は帰らぬというて、他所へ行かはりました』
と云ふ。
喜楽『そんならお藤サンは何処へ行つたか』
と聞いて見ると、
お鯛『一寸よそへ行かはりました』
といふ。
喜楽『晩には帰つて来るだらうな』
と聞いて見ると、
お鯛『イエ晩になつても帰らはりしまへん、高町サンもお藤サンも晩にも帰らはりしまへん』
と垣をする。晩に帰ると云へばまた夕方に来られては困ると、予防線をはつて居たのである。それから外の人の宿所を尋ねて見たけれど、何を言うても、知らぬ知らぬの一点張で仕方がないので『女が夜さり内に居らぬやうな事では、どうで碌な事をして居るのではなからう……』と腹立紛れに二階へワザと聞えるやうに言ひ放つてそこを立ち、七条通まで下つて来ると、浦上は三牧次三郎や西村栄次郎といふ信者の家を訪問すると云うて別れ、西田が伏見方面からやつて来たのに出会し、一所に伏見や宇治の方面へ宣伝に行く事とした。
 高瀬川に添うて勧進橋の傍まで下りながら、
西田『畑中の奴、どこからどこまでも自分等の邪魔をしやがる、大方伏見の方へも行つてるに違ない。彼奴がもしもここへやつて来やがつた位なら、この高瀬川へ放り込んでやるのだけれど』
などと西田が憤慨しながらフト顔をあげて見ると、畑中伝吉が風呂敷包を負うて真赤な顔をして出て来るのにベツタリ出会した。京都伏見間の電鉄がそこへ来て停車した。呶鳴る訳に行かず、
喜楽『オイ畑中また邪魔しにまはつたな』
といふと畑中は『ホイホイホイ』といつて走り出し二三丁ばかり行つて振り返り、ヤレまあ安心だといふやうな風をして居る。会長は大声で……『馬鹿ツ』と二口三口呶鳴ると西田が、
西田『こんな所で大声で呶鳴る者が馬鹿です』
と気をつけたので、
喜楽『ホンに呶鳴る方が馬鹿だなア』
と言ひながら、伏見の信者を二三尋ねて見ると、また箒で掃き出し、閾を跨がさぬ。
『貧乏神サン、小松林サン去んで下され』
と連呼し冷遇するので這入る訳にも行かずはるばる宇治まで行つて、御室の支部を訪問すると、ここもまた畑中の注進によつて冷淡至極な態度を示して居る。
 そこで西田と別れ、喜楽はただ一人京都まで帰り、三牧の宅で浦上と会し、たつた一銭五厘より二人の中に金子がないので、徒歩で愛宕山を越え、保津へ出で、八木へ立寄り、またもや放り出され、雨のビシヨビシヨ降る中を震ひ震ひ園部の浅井まで帰つて、麦飯でも喰はして貰はうと思ひ、立寄つて見ると、ここもまた冷淡な態度で茶も呑まさず去んでくれと云ふ。仕方なしにまたもや檜山まで帰り、坂原へ立寄ると坂原は折ふし不在で、妻君が一人残つて居り、
『今綾部から畑中サンが出て来て、茶一杯呑ましてはならぬ、艮金神さまのお気障りになると言ははりましたから、どうぞこれぎり、あんたにはすみませぬけれど、小松林サンが改心しやはるまでよつて下さるな』
といふ。二人は破草鞋を拾つて足につけ、坂路を上り下り、漸く須知山の峠まで出て来た。そこに蒟蒻を売つてるので、蒟蒻を一銭五厘で三枚買ひ、宇治から二十四里の道を空腹を抱えて帰つて来たこととて何とも知れぬ甘さであつた。それから綾部へ帰り、浦上はこりごりして餅屋を始め出し、喜楽が神様を祭つてやつて非常に繁昌をし出した。さうするとソロソロ浦上が慢心し出し、神様の悪口や喜楽の行方までも非難し、頻りに反対を始めて居たが、とうとう養鶏場を開設して大損失を招き、折角儲けた金も一文も残らずなくした上、沢山の借金を拵へ、親族やその外の人々に損害をかけて綾部にも居られず位田へ逃げ帰り、細々と豆腐屋を営んで居る。

(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 松村真澄録)



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