出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-5-251922/10舎身活躍丑 雑草王仁三郎参照文献検索
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第二五章 雑草〔一〇六二〕

 建勲神社に奉仕中、喜楽は休日を利用して宇津の小西の布教してゐる八幡宮の社務所へ出張して見た。さうすると沢山な信者が集つて、祈祷して貰うてゐる。湯浅仁斎氏の、妻君も満艦飾をこらして参拝して居た。さうすると小西が大勢の前で、
小西『あゝ会長サン、来なさつたか、狐はモウ去にましたかなア』
とおチヨくるやうに無礼な事を言ふ。喜楽はムツとしたが、いやいや待て待てと胸をなでおろし、喜楽は永らく綾部で大勢に圧迫や妨害を加へられ、隠れ忍んでやうやう西田と二人してここにお広間を拵へ、ここを根拠として大本の教を開かねばならぬのだから、今怒つては大事の前の小事だと、ワザと平気な顔をして笑うて居ると、小西は尚もつけ上り、
小西『皆サンこの人は綾部の海潮と云ふ人で、瑞の御霊の大神様が御守護してござつたのぢやが、官幣社の神主になつたりするもんだから、神様が愛想を尽かして、この松元に移り替へなさつたのだから、瑞の御霊の御神徳は皆この松元におさまり、海潮サンは蝉のぬけがらになつた後へ、稲荷山のケツネがついて居ますから、モウ駄目です。こんな人に鎮魂をうけてはいけませぬ』
と人の前で臆面もなく喋り立てる。喜楽は、
喜楽『あゝさうだ、私は脱殻だ、どうぞ松元サンに、一時も早く綾部へ来て御用をして貰はねばなりませぬ』
といつたら、松元は得意になつて、
小西『綾部の教祖様が変性男子の御身魂で、この松元が松の大本で、変性女子の御用をするんだが、モチと海潮の改心が出来ぬと、中々行けませぬワイ』
と云ひながら、折角開いて置いた北桑田の信者を小口から、第二の中村のやうに悪口を言うてふれまはしてしまうた。その時湯浅夫婦も松元の教会へ病気のために参拝して居たが、湯浅はどうしても松元の行方が気にくはぬので、自分は船岡の妙霊教会へ月参りをし、妻君のみが隠れて信仰をして居つた。それから明治四十一年の二月の事であつた。会長は建勲神社を辞職して、御嶽教の仮本庁が伏見の稲荷山に宏大な館を立てて設置されてあつたので、神宮官庁から頼まれて、副管長格の主事といふ役をつとめて居た。喜楽が御嶽教へは入つたのは、御祭神が国常立命であるのと、将来神の道を布教するに付いて見学のために、無報酬でつとめて居たのである。そこへ湯浅斎次郎氏が小西に頼まれたと云つて使に来た。その時海潮は大阪の生玉に設置されてある、御嶽教大教会へ教会長なので二三日出張して居た。その不在中に湯浅は御嶽教の本庁で泊めて貰ひ、喜楽の書いた沢山の書物を半分ばかり読んでしまひ、非常に信仰を固めて居た。そこへ喜楽が帰つて来て湯浅に会ひ来意を尋ねると、
湯浅『小西松元サンの息子の嫁に妹のお君さまを貰ひたい』
との事であつた。海潮は小西松元のためには非常に侮辱されて、余り面白くなかつたけれど、お道が大事だと思うて隠忍して居た所である。一層の事妹をやつたならば小西も反対をせず、自分の云ふことを聞くやうになるだらうと思ひ、早速穴太へ帰つて母と相談の上、僅に十五才の妹を無理にたらかして、湯浅氏の媒介で、一先づ湯浅の宅へ落着き、結婚式を挙げさしたのであつた。それから小西は改心するかと思ひの外、益々増長してどうにもかうにもならぬやうになり、遂には各信者の小西に対する不信任が加はつて来て、一人も来ぬやうになつてしまつた。さうすると小西が独断で綾部の大本へ、明治四十三年にやつて来て、お広間に先生顔をして坐り込み、薬の指図をしたり、鎮魂を始め出した。教祖さまは鎮魂や薬の指図が大の嫌ひなり、二人の中に立つて大変に気をもんだ。さうかうして居る内に御嶽教の機関雑誌『経世軍』といふ小さい発刊物の記者をして居た千葉埴麿が御嶽教を放り出され、食ふことが出来ぬから、麦飯でもよいから綾部に置いてくれぬか……と手紙をよこしたので、承諾の旨を答へてやると、すぐに夫婦二人で綾部へやつて来て、それから宮沢円竜といふ法華坊主上りの神道家を呼びよせ、栃木県の吉田村に二億万円の金がいけてあるから、掘り出して国家のために尽さうかといひ出し、千円ばかりも工面して大本から金を引出し、そしてその実は半分以上自分の借金なしをしたりしてしまひ、大本から小西の息子の増吉と田中善吉とが吉田へ金掘に行つた事があつた。モツと金をよこせ、キツと出ると云つて来たけれど、モウそれぎりで金を送らず田中と増吉とを綾部へ呼び返した。サアさうすると千葉が教祖さまに甘く取入り、ソロソロ会長の排斥運動に着手し、教祖の命をうけてはそこら中を訪問して、自分勝手なことをやつて居つた。
 小西は綾部に居れなくなつて、再び宇津へ帰り、神様を拝んで居たが、二三十人の信者が代る代る参拝して居た。増吉は千葉と宮沢にスツカリ抱込まれ、大本へ反旗を翻して両人を吾家へ連れ帰り、園部の片山源之助や浅井はな等と諜し合はして大本乗取りの策を講じてゐた。そこで湯浅がワザとに小西の味方となつて陰謀を残らず探り大本へ報告したので、彼等も策の施すべき所なく、とうとう東京へ宮沢は逃げ帰り、千葉は片山源之助と園部の新町で報公義会といふ会を拵へて、片山を大将とし、浅井はなをしまひには放り出して、勝手な熱を吹き、盛に大本に反対をつづけてゐた。小西はとうとう御嶽教の教導職となつて、京都の大本の信者の宅へ入り込み、盛に病気直しをやつて、流行らしてゐたが、その家の妻君と妙な関係が出来、主人に見つけられ、女房は直に裏の井戸へ投身して死んでしまつた。それから大変な悶着が起り、法律問題が持上らうとした。さうすると小西増吉が自分の姉と一緒にやつて来て、反対に喜楽に熱を吹き、この事件を甘く事ずみさせるためのあやまり金を喜楽の貧弱な懐から無理に出さして帰つた事がある。
 それから小西は京都にも居れなくなり、再び宇津へ帰り中風の気になつて弱つてゐたが、大正六年頃とうとう帰幽してしまつた。小西の弟子に小沢惣祐といふ男があつて、これがまた江州の貝津へ支部を開きに行き、そこの娘と妙な関係が出来て放り出され、綾部へもやつて来て役員と始終喧嘩ばかりしてゐたが、遂には綾部を飛出し茨木や肝川などにお広間を建て、しばらくするとその土地の役員と衝突して飛び出し、遂には亀岡の旅籠町で京都の大内といふ後家をチヨロまかし、また失敗して大正六年頃綾部へ帰つて来て、元の祖霊社で腹を十文字にかき切り、喉をきつて自殺してしまつた。それから杉井新之助といふ男が出て来て、大本を交ぜ返し、自分が全権を握らうとして、二代澄子に看破され、叱りつけられて、柏原の大本の支部へまはされ、そこで大本の反対運動を起し、大社教の教会を建て、今に宣伝してゐるさうである。

(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)



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