出口王仁三郎 文献検索

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物語38-5-241922/10舎身活躍丑 呪の釘王仁三郎参照文献検索
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第二四章 呪の釘〔一〇六一〕

 明治卅三年八月下旬の事であつた。会長は大本に在つていろいろと一心に教典を執筆してゐる時、郷里の穴太から……元治郎危篤すぐ帰れ……といふ電報がついたので、直に教祖にその由を申上げた。教祖は早速に神さまにお伺ひになり、
教祖『余程の大病ぢやそうですから、早う行つて助けて上げなされ、元ハンもこれで改心が出来て、反対をせんよにならはりませう』
との言に早速草鞋脚絆に身を固め、木下慶太郎氏をつれて、翌早朝から竜宮館を立出で、十四里に余る山路を辿りつつその日の黄昏時に漸く穴太の自宅に着いた。その夜は二人共旅の疲れで前後も知らずに寝てしまつた。
 翌朝早く起て病人はどうかと調べてみるに、手もつけられぬやうな熱と痛のために、一寸も身動きならずウンウンと唸り声を立てて苦んでゐる。直に神前に向かつて元治郎の病気平癒を祈願した。さうすると喜楽の腹の中から、固まりがゴロゴロと上つて来て、
喜楽『この病は商売敵で十五人の鍛冶屋の団体から呪はれてゐるのだから、これからすぐに産土さまへ参拝して見よ。お宮の裏の二本の杉の木に、元治郎の姿を画き、その上に七本の釘がうつてあるから、早う行つてその釘を抜き取り、その釘跡につき立の餅をうめておいたら、この病気はキツと直る』
との事であつた。かくと聞いた傍の人は半信半疑の体で、会長の顔をポカンとして見つめて居た。弟の幸吉と木下慶太郎氏と下男の幸之助と三人が、神のお告のままに、直様産土の小幡神社に至り捜してみれば、果して二本の大杉に五寸位の釘が八本づつ打込んである事を発見し、直に釘を抜き取つて急いで帰つて来た。そこへ村の衛生係が巡査と医者をつれて入来り、
『この病気は猩紅熱だから、伝染する虞がある、今すぐに予防の手当をしなくてはならぬ、またお前たちは家を一歩も出てはならぬ』
ときびしく言ひ出した。その当時は村中に猩紅熱が流行して、どこの家にも二人三人の患者が唸つてゐたのだから、医者も猩紅熱と診察したのであつた。会長も二三年ばかり医学を研究した事があつたのを幸ひ、病理上から伝染病でない事を説明し、これはきつと生霊の祟りだといふ事を主張した。医者等は嘲笑うて、
『この開けた世の中に、生霊の祟りなどといふ事があるものか』
と一笑に附して聞入れぬ。会長は熱心に霊的の作用を説き、且抜いて来たその釘を見せて証拠とした。医者を始め巡査衛生係は半信半疑の体で一先づ引取つてしまつた。不思議にも今まで苦悶してゐた元治郎は、社内の杉から釘を一本一本ぬき取ると同時刻に体の中が涼しく覚え、やがて全部の釘をぬき取ると同時に、やがて熱も痛も拭ふが如く去り、今まで身動きだに出来なんだ者が、俄に起上つて喜び勇み、もうこれなら大丈夫だと泣き笑ひをした。ここに始めて見舞に来てゐた人も神徳の広大無辺なるに驚いた。元治郎は喜楽の不在宅で鍛冶屋を職業としてゐたが、下男の幸之助は沢山の鍛冶職人から頼まれて、氏神の杉の木に元治郎の姿をかき、釘を打込んで呪ひ殺さうとしたのであつた。それを神さまの霊眼によつて発見し、病気が直つたのだから、俄に会長が恐しうなり、自分の罪が発覚せむ事を恐れて、その夜の中に自分の女房と共に何処ともなく逐電してしまつた。あとにて聞けば幸之助は紀州の故郷へ帰ると共に元治郎と同じ重病にかかり、大変に苦んだと云ふ事であつた。二三日穴太に逗留してゐると、近所の熱心な人が参つて来て、いろいろと病気の御祈願を頼むので鎮魂をし、難病を癒してゐた。やがて綾部へ帰らうとする時、元治郎に、
喜楽『お前は神さまの思召によつて、こんな目に会うたのだから、キツと幸之助を恨めてはならぬぞ、一日も早く真心に立帰つて、神さまの御恵を享けるよに祈つてやれ、幸之助が決して悪いのではない、余りお前の我が強いから、大勢の同職人に憎まれたのだ、お前もこれから病気が直つたら、心を入れかへて信神をせい』
といつて木下と共に綾部へ帰る事となつた。そして帰りがけに重ねて、
喜楽『お前の病気は呪ひ釘をぬいたのだから、一旦は全快したやうであるけれど、お前の罪は消えてをらぬから、再悩みが出て来るだろ、しかし命には別状ないから安心せい、二月ばかりは苦しいが、それを越えたら元の体になるだらう』
というておいた。その後またもや体がそこら中がウヅき出し、腰のあたりが腫れて、再身動きもならぬやうになり、困つてゐたが六十日目の夜、二三升の膿汁が腰の腫物からはぢけ出し、始めて病気が全快した。今まで信神の嫌であつた元治郎もこれより御神徳の有難い事を悟り、今までのバクチを止めて朝晩神さまを拝む心になり、とうとう神の道を宣伝するやうになつたのである。
 それから八十八歳になつた喜楽の祖母が亡くなり、百日祭をすました翌日家が焼けてしまつたので
、母と共に家族一同が、一先ず綾部へ引つ越して来ることとなつたのである。自宅の焼ける事は二三年前から、神さまに知らされてゐた。それ故に何時も元吉に気を付けて村々の百姓から、修繕のために預つて来た農具を、別の小屋の中へしまつておけと云つておいたお蔭で、上田家の物は何もかも残らず焼けてしまつたが、預つた農具は少しも焼けなかつたのは不幸中の幸であつた。
 家の焼ける前の日、西田は弟の幸吉と綾部へ一度参つて来うと、相談をきめ、家に寝てゐると、喜楽が黒木綿の紋付羽織を着て帰り来り、火の用心が悪いから、二三日どこへも出るなと云つたと思へば夢であつた。また母の耳へ、どこからともなく、火事があるから気をつけ、どこへも行くなと云ふ声が聞えたので、不思議がつて注意をしてゐた所、俄に仏壇の上の方から火が出て、丸焼けになつてしまうたのである。その時王子の栗山のおことハンが綾部へ参つて来たので、帰りがけに手紙を書いて、亀岡の古世の岩崎といふ伯母の内へ言づて、穴太が焼け相なから気をつけて貰ひたいというてやつた。伯母は一日二日グヅグヅしてゐる内に穴太が焼け、穴太から行つてみると、喜楽の手紙が来てゐるので、驚いたといふ事があつた。
 母及弟妹は二三年綾部に来て居たが、余り元の役員の反対がきつく、小松林の親ぢやというて虐待をされ、しまひには役員に蹴り倒されて息が止まり、折よく西田が帰つて来て介抱して、息を吹き返したといふやうな塩梅で、母は大変に怒つて、一生綾部の方向いて小便もこかぬと云つて、明治卅五年の秋一先づ園部まで引上げ、それから卅六年には、元の穴太へ帰つてしまうたのである。
 しかしその時の役員はある迷信上からやつたことで、決して悪い事とは夢にも思うてゐなかつたのである。御道のため世界のためになることだと固く信じて、喜楽の母の横腹まで蹴つて気絶さすやうな目に会はし得々として居たのであつた。実に迷信ほど恐しいものはないのである。

(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)



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