出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-5-231922/10舎身活躍丑 狐狸狐狸王仁三郎参照文献検索
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第二三章 狐狸々々〔一〇六〇〕

 明治卅八年の八月、西田元教は種々と艱難辛苦して山城の宇治で数十人の信徒をこしらへ、茨木清次郎と云ふ人の座敷を借つて盛んに布教をやつて居たが、あまりの多忙に一度応援に来てくれと云ふ端書を寄越したので、自分はソツと綾部を未明に飛び出し、鞄をさげて須知山峠を登つた頃、太陽が昇られた。それから一生懸命に榎木峠、観音峠を越え、園部の支部へ一寸立ち寄り才幸太郎と云ふ信者を荷持ちとし、徒歩にて亀岡、王子を越え沓掛から道を右にとつて伏見に着いた時は、已に太陽は西の山の上一二間ばかりの処にあつた。伏見の安田庄太郎と云ふ信者の家に立寄つて見た処、瓦屋で今竈へ火を入れて居る最中、ユツクリ話も出来ずして居ると、中村の股肱となつてゐる男の事とて、
安田『海潮ハン、何で綾部に居りなさらぬ。またしても病気が起りましたか。海潮のする事は何もかも後戻りばかりぢやと教祖さまはおつしやるのにまた行くのですか。さあ帰りなされ、それとも今竈へ火を入れて居る最中ですから話しも出来ませぬ、今夜泊つて下さい。また後で話をしますから………』
と云ふ。
『これはまだ目が醒めぬのか、愚図々々しては大変………』
と幸太郎を促して早々に立別れ、伏見の豊後橋を渡つて宇治川の長い土手を遡り、綾部から二十四五里の道を漸く夜の八時頃茨木の宅へついた。行つて見れば人が一杯詰つて居る。南郷国松、茨木清次郎、岡田熊次郎、長谷川仙吉、その外七八人の世話方が出来て大変な勢で月例祭をやつてる処だつた。家の内にも外にも参詣者が一杯詰つてゐる。海潮が見えたと云ふので沢山の信者が涙を流して喜んでゐた。それから自分は綾部の者には少しも知らさず、清次郎の家で布教宣伝をやつて居ると、毎日五六十人から百人位の参詣者が出て来て、いろいろの病人がお神徳を頂いて帰るので宇治の町は坊主と医者を除く外、全部信者になつてしまつた。そして近村からも三四里の処から日々参拝する非常な盛況である。宇津の小西松元の広間が気にかかつて居るので、一生小西の処へ行かぬと云ふた西田元教を無理に勧めて、視察のために才幸太郎と共に使にやつた。さうすると松元は自分の宅が狭いので産土の八幡神社の広い社務所を借つて、そこで神様を祭り大変な勢で布教宣伝をやつて居つた。さうして西田が来たのを見て小西は、
小西『よう珍しい、よう忘れずに来られましたな』
と横柄に云ふて居る。さうした処が小西の神懸の様子が大変に怪しいので一寸影から審神者をして見ると、何でも狸が憑依してるやうなので押戸を開けて見ると、手のとれた古い仏さまが五つ六つ無雑作に突つ込んである。そこで西田が、
西田『小西サン、こんな虫の喰た仏像は川へ流したらどうだ。此奴あ屹度狸が守護してゐるから、其奴がお前に憑つて居るのでお前の神懸が可笑しうなつて、一寸もあはぬやうになつたのだ』
と云ふと、小西が大変に怒つて、
小西『馬鹿の事云ふな。お前は海潮の狐の尾先に使はれて来たのだらう』
と悪口をつき、大勢の信者の前で散々に罵倒するので西田は立腹し、そこを立出で宮村へまはり、芹生峠を越えて貴船神社を右に見ながら、京都を横断して漸く宇治へ帰つて来てブツブツ小言を云つて居た。さうすると翌日になると、西田が真青な顔になりブルブル慄ひ出した。よくよく調べて見ると瘧を起して居るのである。そこで海潮が審神すると、西田が口を切つて、
『俺は宇津の八幡様の社務所に居る仏像を守護して居る狸だ。俺の大切な御本尊を川へ流せと吐しやがつたから、此奴の生命を取らにやおかぬ』
と意地張つて益々身体を苦めるので、摺鉢を西田の頭に着せ、その上に艾を一掴み乗せて灸を据えると『熱い、苦い』と云ひ出し到頭落ちてしまつた。それからその翌日は何ともなかつたが、三日目の同じ時刻になると西田が、
西田『また来やがつた。何糞ツ』
と気張つてゐる。されど狸の憑霊は猛烈な勢で襲ひ来り、また瘧を慄はせて苦めて居る。自分は今度は西田の頭に濡れた手拭を着せその上に摺鉢を乗せて、百匁ばかりの艾をつけて扇で煽ぎながら鎮魂して居ると、ヤツとの事で落ちた。それから二三遍チヨコチヨコやつて来たが到頭退散してしまひ、西田は元の通り元気になつて布教に従事して居た。
 話は後へ戻るが、西田の手紙を見て綾部を立つて園部の支部へ立寄り、それから小山の田井儀兵の宅に一寸一服してゐると、東から園部へ這入つて来た汽車の汽笛の声が、何とはなしに驚きと悲しみとを含んでをるので、海潮は田井儀兵に向つて、
海潮『あの汽笛の声は誰か轢死したに違ない』
といふと、
田井『如何にも何時もとは違ふ、烈しい声ですな』
と外を覗くと野良に居た沢山の人が一生懸命に鉄道へ駆けつける。自分も宇治へ行く道だから、此処でユツクリして居れぬと鉄道の側へ行つて見ると、小さい青い顔した男が胴から二つになつて五六間ばかり引きずられて真青な顔して死んで居る。西田が自分を迎へに来て轢かれて死んだのではないかと思ふ位、その顔がよく似て居たので側へ寄り、よくよく見れば、さうではなかつた。その間に巡査が来たりいろいろして調べて居た。轢かれた処の砂の上に新庄村の何某と木の先で土に書いてあつた。後にて聞けばこの男は僅た一円五十銭の主人の金を使ひ過ごし、それを園部の親類へ借りに来て拒絶せられ轢死したと云ふ事を新聞で知つた。さて才幸太郎の顔が俄にその轢死した男に見え出し気分が悪くて仕方がないのを無理に宇治まで荷を持たして居たのである。才幸太郎は時々瘧をまた慄ひ出し、審神して見ると、
才『俺は小山の軋道の上で轢死した男だ。一番先にお前が俺の顔を見たので憑いたのだ』
と云ふ。それからまた摺鉢の灸で、やつとの事で全快させ園部へ帰した。さうこうして居ると、伏見の安田から聞いたと見えて三牧次三郎と云ふ中村の乾児が宇治へやつて来て、南郷国松や長谷川仙吉その外の役員に種々雑多の海潮や西田の悪い事を云ひ、
三牧『艮の金神様に敵とうて来た奴だから相手になるな』
と云ひ出し、到頭卅九年の一月元日の朝大勢寄つて自分を放り出してしまつた。自分は一文も旅費なしに小山の田井氏の宅まで帰つて来ると沢山の信者がよつて来て泣いて喜び四五円ばかりの小遣ひをくれた。それを以て久し振りに綾部へ帰つて来た。それから西田はその月の十五日に三牧次三郎や南郷その他の者の計略にかかつて荷物一切を取られた上、放り出されてお雪と夫婦連れ伏見へ行き、お雪はある撚糸の工場へ女工になつて這入り、西田は按摩を稽古して、商売片手に伏見地方に布教して居たが、四十二年に自分が綾部へ帰つて大広前を建てたりお宮を建てるやうになつてから、ソロソロ綾部へ帰つて来て、頻りに宣伝する事となつたのである。
 これより先、西田と三牧は宇治の橋熊と云ふ顔役に頼まれてその乾児等の家の祖霊祭を夜になると頻りにやつてゐた。さうした処がその祖霊箱が時々躍り出し、お供物をすると魚のお供の方へカタツと音をさしては向き直つたり、階段を下りたりするので、霊と云ふものは偉いものだ。本当に西田サンや三牧サンは偉いと云ふ評判になり、何処もかも競ふて祖霊祭を頼んでゐた。橋熊は親分の事とて自分の宅だけは海潮にして貰ひたいと云つて特別に頼みに来たので、自分が行つて祖霊祭をすませ、一服をして居ると橋熊が妙な顔をして、
橋熊『もし先生、宅の祖霊さまはまだ納まらぬのですか、他家の祖霊さまは皆動くのに、何故宅だけは動きませぬ。貴方は先生でありながら霊が利かぬのですか』
と不足相に云ふので、狸が這入つて動くのだと明かす訳にも行かず、
喜楽『私は祖霊祭は今日が初めてだから勝手を知りませぬ、三牧さんが上手ですからして貰ひなさい』
と体よく云ふた。さうすると今度は、三牧を頼んで祖霊祭を改めてやつた所が、大変に箱が動き出したので、三牧の信用が高まり、西田がやつても自分がやつてもチツとも動かぬので到頭迷信家の信用を失ひ、自分は真先に放り出され、西田も次で追ひ払はれてしまふたのである。綴喜郡の郷の口の浅田安治といふ酒造屋の妹に、お鶴と云ふ癲疳病者があつた。その女の病気を癒してくれと云つて頼みに来たので、遥々と郷の口へ行つて鎮魂した処、一月ばかり癲疳は止まつて居た。さうした処酒倉の中でまたもや癲疳が起つたのでソロソロ海潮の信用が薄くなつた処へ、その村で廿才位の娘で永らく足の起たぬ病人があつた。自分は再び宇治へ帰つて南郷の宅に居て布教してゐると、また頼みに来たので今度は三牧と小竹が鎮魂に行つた。さうするとその娘が、
『俺は三年前に死んだ此処の婆アぢやが村中の誰彼に内所で金を何程何程貸した』
と誠しやかに喋り立てるので、合して見ると千円ばかりの金だから、病人の兄が、
『家の婆アサンの霊がお前の処へ金を貸したと云ふが返してくれ』
と其処ら中へ歩いたので、村中の大騒動となり、
『一体誰がそんな事云ふたか』
と調べて見ると、三牧が鎮魂してその娘が喋り出し、小竹と云ふ男と二人がついて居ると云ふので、巡査がやつて来たり色々と悶錯が初まつた。そこで郷の口から自分を呼びに来たので行つて見ると、その娘は頻りに婆アサンの声色を使ふて、『どうしても金を貸した』と意地張つてゐる。それから三牧と小竹を宇治へ帰し、自分が一晩泊つて様子を考へた処が、非常に怪しいので刀を一本主人から貸して貰ふて祝詞をあげながら空を切つて見ると箪笥の横から昼の真中に七匹の豆狸が飛び出した。それと共にその娘は病気が癒つてしまつた。さうすると海潮にお礼を云ふ所か、
『お前サンは三牧のやうな弟子を使ふて宅の娘に狸を憑けて、こんな村中の騒動をさしたのだらう』
と反対に理屈を云ひ、
『ど狸奴が、早うかへれ』
と呶鳴りつけられるので到頭狸憑けにしられてしまひ怨みを呑んで宇治まで帰つて来た。さうすると、南郷や長谷川が三牧と一つになつて、三十九年の正月元日に朝つぱらから自分を放り出す事となつたのである。霊界の事の分らぬ連中になると困つたもので、訳を云へば云ふほど益々疑ふて始末におへぬものである。それから自分も病人の鎮魂がサツパリ嫌になり、神懸の修行も断念してしまふた。が大正五年に横須賀の浅野サンの宅へ行つた時、参考のためにまたもや幽斎の修行をして見せたのが元となつて浅野サンが霊学を熱心に研究し始める事となつたのである。

(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)



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