出口王仁三郎 文献検索

リンク用URL http://uro.sblog.jp/kensaku/kihshow.php?KAN=&HEN=&SYOU=&T1=%BC%CB%BF%C8%B3%E8%CC%F6&T2=&T3=&T4=&T5=&T6=&T7=&T8=&CD=1454

原著名出版年月表題作者その他
物語38-4-201922/10舎身活躍丑 元伊勢王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
詳細情報:
場面:

あらすじ
未入力
名称


 
本文    文字数=5031

検索語に該当が1つもありません

第二〇章 元伊勢〔一〇五七〕

 明治三十四年旧三月八日、元伊勢の御水の御用があつた。世界広しと云へども、生粋の水晶の御水と云ふのは、実に元伊勢の天の岩戸の産盥産釜の御水より外には無いので、その水晶の御水を汲んで来ねばならぬと云ふ御筆先が旧三月一日に出たのである。
『艮の金神の指図でないとこの水は滅多に汲みには行けぬのであるぞよ。この神が許しを出したら何処からも指一本さへるものもないぞよ』
と云ふ意味の御筆先である。極めて大切な御用であるから、六日前に木下慶太郎が調べに行つて来た。この水は昔から汲取禁制の御水で万一禁を犯した場合は必ず大風大洪水が起ると伝へられ、何人も触れる事の出来ぬやうに特に神官が見張をして居るのみならず、上の方から見下した処では小さい流れがあつて、二間ばかりの板を渡さねば行かれないと云ふ事まで確めて帰つて来たのである。愈当日になつて、教祖の外海潮、澄子を初め一行四十二名、菅笠、茣蓙蓑の扮装、御水を汲み取るために後野市太郎が拵へし青竹の一節の筒二本を携帯して出発した。丹後の内宮の松代屋に着いて一行は打ち寛ろぎ、前に木下が調べし通り神官が見張つて居つては汲む事が出来ないから、先づ森津由松に命じて様子を見届けにやつた。日が暮れかけたので、見張の神官が内へ引上げるのを見届けて森津は早速報告に引返した。草鞋もとかずに森津の報告を待ち兼て居た、木下慶太郎は例の用意して置いた青竹の筒二本を携へて大急ぎで岩戸へ駆けつけた。六日前に調べた時に見て置いた小さな流には大きな朽木が流れ寄つて横はつて居つたので、これ幸ひと渡つて行つた。そして産盥と産釜の水を青竹の筒の中へ杓子で汲取るのであるが筒の穴が小いため、仲々手早く済まず、愚図々々して邪魔が這入つては今度の大切の御用が勤まらぬと心得た木下は、二本の筒を両手に持つて矢庭にヅブヅブと突込んで、漸く水が一杯になつたので、安心して松代屋へ引揚げた。一行は風呂から上つて夕食の最中であつたが首尾よく御用を勤めた事を申し上げると、教祖は非常に喜ばれた。そして木下は大きな朽木の橋の事を申上げると教祖はそれは正しく竜神様であると云はれた。翌日は御礼参りに行つて夕方五時出立、夜徹し歩いて帰つたが、綾部へ帰るまで何の御用をして来たか知らぬ者さへ多かつた。
 汲んで来た生粋の水晶の御水は神様に御供へしてその御下りを皆で少しづつ戴き、大本の井戸と元屋敷の角蔵氏方の井戸と四方源之助氏宅の井戸とへ五勺ほどを残りは丹後の沓島冠島の真中即ち竜宮海へさせとの教祖の吩咐であつた。第一着に大本の井戸に入れたが、教祖は、
教祖『今に京都大阪あたりからこのお水を頂きに来るやうになる』
と云はれたが今日では已に実現して居るのである。
 元屋敷の井戸と云ふのは、西の石の宮の処の井戸で出口の元屋敷であるが、角蔵に売つたのであるから勝手にさす訳には行かぬので木下慶太郎の計らひで釣瓶縄が切れたから水を貰ひに来たのだと云つてさし込んで来たのである。元屋敷は後に角蔵から買ひ戻して大本の所有になり、今日では石のお宮が立ててある。四方源之助の内の井戸にも木下が同一筆法でさし込んで来た。これは今統務閣の側の井戸で現今では三つとも大本の有となつて居る。
 この御水の御用が出来た頃、大本で三つの火の不思議があつた。お広前のランプが落ちて大事になる所を漸く消し止めたが、それからまだ二三分間も経たぬ内に風呂場から火が出て、これまた大事になる所を海潮が見付けて大騒ぎとなり漸く消し止めた。するとまた役員の背中へランプが落ちて危い所を無事に消しとめた。僅二三分の間に三つも火事沙汰が起つたので何か神慮のある事だらうと思つて居ると海潮は神懸りとなつて深い神慮を洩らされたのである。御水は後になつて教祖様が役員信者の大勢と共に竜宮海へさしに行かれた。この水が三年経てば世界中へ廻るから、そしたら世界が動き出すと云ふ事であつたが果して三年後には日露戦争が始まつたのである。

(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)



オニドでるび付原文を読む    オニド霊界物語Web