出口王仁三郎 文献検索

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物語38-4-181922/10舎身活躍丑 鞍馬山(一)王仁三郎参照文献検索
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第一八章 鞍馬山(一)〔一〇五五〕

 世は浮薄に流れ、人は狡猾に陥り剛毅昂直の気淪滅し、勇壮快濶の風軟化して因循姑息となり、野鄙惰弱と変じ、虚誕百出詐偽自在に行はれ、或は囁嚅笑談他の意に投合するを勉め、巧言令色頭を垂れ腰を曲げ、以てその欲を満たさむとするの卑劣と無節操は、社会の全体に瀰漫し、我神洲神民たるの高尚優美の気骨雅量を存せず、国民の基礎たるべき青年は概ね糸竹管絃の響きに心耳を蕩かし、婀娜嬋妍たる花顔柳腰に眩惑せられ、奢侈淫逸の欲を逞ふして空しく有為の歳月を経過する者のみ。国家の前途如何を思ふの志士仁人無く、世は将に常暗ならむとするを深く憂慮し、神示のまにまに大本の教祖は抜山蓋世の勇を振ひ、百折不撓の胆を発揮し、世道人心を振起せむと、上田海潮、出口澄子、四方春三の三名を従へ菅の小笠に茣蓙蓑、手には芳しき白梅の枝にて作りたる杖をつき草鞋脚絆に身を固め、明治卅三年閏八月八日の午前の一時、正に広前の門口を立出でむとする時、前夜より集まり来りし数多の役員信者等は各教祖の袖に縋り異口同音に『どうぞ途中までなりと見送らせ下さい』と泣きつつ頼む者ばかりであつた。教祖も役員等が、しほらしき真心はよく推知し居られたけれど、只管神様の命令を畏みて一人も許されなかつた。生別離苦の悲しさに何れも袖を絞りつつ、教祖が平素における温言厚諭の情は、人を動かし、人を感ぜしめたのである。別れに臨んで、今更の如くその温容を慕ひ和気に懐き恰も小児の慈母に別るる如く焦れ慕ふたのである。さて教祖は梅の杖、海潮は雄松、澄子は雌松、春三は青竹の杖をつきながら、何処を当ともなく従ひ行く。秋すでに深く木葉は色を変じて四尾の神山は漸く紅に黄雲十里粛然たるさまである。和知の清流は淙々として脚下に白布を曝し一行の前途を清むる如くに思はれた。須知山峠の峻坂を苦もなく登り、狭き山道を辿りつつ行けば川合の大原神社、一行恭しく社前に跪坐し、前途の幸運を祈願しつつ、枯木峠も漸く踏み越えて、今や榎木峠の絶頂に差しかからむとする時、前途にあたつて怪しき火光のチラチラと燃ゆるを見とめた。海潮は盗賊どもの焚火をなして旅客の荷物を掠めむとして待ち構へ居るには非ずやと心も心ならず、不安の念に包まれながら近づき見れば、豈図らむや、会員の一人なる福林安之助が数多の役員信者を出し抜いてソツと旅装を整へ、梅の杖まで用意して先へ廻つて待つてゐたのである。教祖一行の姿を見るや忽ち大地に慴伏し、
福林『何卒今度のお伴をさして下さい。私は猿田彦となつて此処にお待申して居りました。願はくば異例なれども猿田彦と思召、特別を以てお伴をお許し下さい』
と頻りに懇願して居る。教祖は、
教祖『何事も神様の御命令なればこの三人の外には如何なる事情があるとも随行して貰ふ訳には行きませぬ』
と固辞して動き玉ふ気色だになかつた。福林は詮方なくなく腹の底から湧き出す涙と共に嘆願し、
福林『今此処で仮令死ぬともこのまま家へは帰らぬ』
と容易に初心を変ずべくも見えなかつた。海潮はその真心を推し量りて気の毒に堪へ兼ね、教祖にいろいろと頼んだ上、
海潮『今度に限つて破格を以て随行と云はず荷物持ち人足として連れて行つて上げたらどうでせうか』
と頼んで見た。教祖もその誠意と熱心に感じられ漸く随行を許された。福林は天にも登るが如く喜び勇み、雀躍しながら四人の荷物を棒もて肩に担ぎ、一行の後に跟いて行く事となつた。老の御足も健かに早くも、質志、三の宮に到れば東天明く旭日燦々たる処なれども、音に名高き丹波船井の霧の海に天地万有包まれて、天の原射照り透らす日の大神の御影を拝する能はず、前途朦々として何と無く物悲しき心地がした。行程六里、檜山に達し会員坂原氏宅に暫時息を休め、須知、蒲生野や水戸峠を上りつ下りつ、観音坂の頂上に辿り着き見れば、丹波名物の霧の海原何時しか拭ふが如く晴れ渡り、船井郡の一都会、花の園部や小向山、天神山は一眸の下に横たはり、佐保姫の錦織りなす麗しさは、筆舌の克く尽す所にあらず、上村、浅田氏等の同居する木崎の川原町に達した。偶一行の出修を知りて急ぎ出迎へ是非一夜泊りて旅の御疲労を休められよと請ふ事最と懇なりしため彼の家に入る。間もなく中田、辻村の両会員入り来り、教祖の居らるる前をも憚らず、何の挨拶も会釈も碌々せず、開口一番上村氏が平生の処置甚だ不公平なり、よつて吾々は退会せむなどと不平を訴ふるので、座上の上村氏は大に怒り、これまた口を極めて彼が不謹慎にして予てより深き野心を蔵し、現在今お供の列に加はる四方春三等と気脈を通じ、本会の瓦解を企てつつありなど、双方意外の事のみ言ひ争ひ、はては四方、中田を速かに除名せられたし、しからざれば小子より退会すべし等、得手勝手の難問題を提出する。中田、辻村の両人は一層憤激し、
『否、上村こそ今回の瓦解の謀主にして、生等はただ相談を受けたるまでにて始めよりかかる反逆には賛成し難し、と一言の許に跳つけた。それ故今日その真相の暴露せむ事を怖れ、先んずれば克く人を制すとの兵法を以て、反対に彼より生等を誣告するのである』
と逆捻に一本参る。互に負ず劣らず、争論の何時果つべしとも見えざれば、海潮は苦々しき事に思ひ、種々と理非を噛分けて諭せども、固より敬神愛民の思想を有せざる頑迷不霊の製糞器、ただ神を估りて糊口の資に供するより外、他に一片の希望なきもの共なれば、済度するにはこの上なく骨を折らざるべからざる、最も困つた厄介極まる代物であつた。
 折柄庭前に嬉々として四頭の犬遊び、その状誠に親睦にして羨ましいほどである。何と思はれしか教祖は懐中より一片の食物を取出し、犬に投げ与へられしに、犬は忽ち争奪搏噬を初め、恰も不倶戴天の親の仇に出会せしが如くである。教祖はこれを見て、人心の奥底は大抵かくの如しと微笑みしながら、匆々にこの家を立出でむとせらるる時、上村は大に恐縮して曰く、生等の心は実にこの犬のやうだと稍反省の意を表はしたが中田、辻村は劫々承知せず、益々暴言を逞しふし、是非々々教祖の御入来を幸ひ、正邪黒白を判別されむ事を強請して止まなかつた。これには海潮もほとほと持て余し、本会の主義精神は一身一家の栄達名聞を企図するに止まらず、国家的観念を養ふにあるのに、汝等会員たるの本旨を忘れ、教祖折角の苦行の首途を擁して、非違の裁断を請はむとするは、実に時を誤りたる非礼の行為なり、教祖多年の艱苦は実に汝等の如き会員を覚醒し正道に導かむがためのみ、今また六十有五歳の教祖が梅ケ枝の一杖に身を托し、凛烈肌を劈かむとする寒天をめがけ何地を当ともなく神命の随々、孤雁声悲しく、暮雲に彷徨するが如く将に遠く出修されむとす、よろしく本然の私に還り教祖のお心を推察せば、かくの如く見苦しき事をお耳に入れ申すべき場合に非ざるべし、と事を釈け、理を解きて諭せども、元来彼等は金光教の教師にして、自ら企て自らなすの勇なく、徒に他の覆轍に做ひ、その糟粕を舐りて以て得たりとなし、信者の争奪にのみ余念なかりし癖は容易に改まらず教祖の諭示も海潮の説得も寸効なく、中田、辻村の両人は梟の夜食を取り外せし如く頬を膨らせ席を蹴立てて帰り、四方、福林もこれに従いて行つた。
 教祖は上村氏等に慇懃なる謝詞を述べ、海潮、澄子を具して立ち出でられし故、上村氏も大橋までお見送りのためとて従ひ来つた。さて四方春三は中田方に至り頻りに何事か善からぬ事のみ囁きつつ不興の顔色物凄く、口を極めて海潮を罵り是非排斥せずむば止まずと息捲く。福林氏は草臥たりとて中田が家に入るや、直に昇り口に打倒れ、熟睡を装ひつつ狸の空寝入り、素知らぬ振にて彼等の密談を残らず聞き取つた。少時ありて欠伸と共に起き上り、態と空惚けたる面を擦りながら教祖は何処にありやと問へば、
中田『あの気違ひ婆か、否狂長殿か、只今しかも偉相に上村氏を随行させて出て行つたから大方大橋の詰辺りに今頃は迂路ついてござらう』
と会員にあるまじき言葉を弄するも、一味の四方は咎めもせず厭さうに福林を伴ひて教祖の跡を追つかけた。夕陽は已に西山に没し、黄昏の霧は一行を包まむとする。四方春三は、
四方『夜の旅は危険ですし、さりとて旅費も豊ならず、むしろ中田氏に一泊しませう』
と云へば教祖は少しく怒つて、
教祖『仮令野宿をしても彼等の家に泊るのは厭ぢや』
とて気色悪ければ、一行は不承々々に従ひ行く。小山、松原乗り越えて一里半行けば鳥羽の里、広瀬も後に八木の町、月は照れども深更に入りて漸く八木の会合所福島氏方へ着いた。

(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)



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