出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-3-141922/10舎身活躍丑 沓島王仁三郎参照文献検索
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第一四章 沓島〔一〇五一〕

 丹後の舞鶴からも若狭の小浜からも、縞の財布が空になると云ふ宮津からも、丁度十里あると云ふ沖中の一つ島で、昔から『男は一生に必ず一度は参れ、二度は参るな、女は絶対に禁制万一女が参拝しやうものなら、竜宮の乙姫さまの怒りに触れて海上が荒れ出し、いろいろの妖怪が出たり大蛇が沢山現はれて女を丸呑みにする、さうして子孫の代まで神罰を蒙る』と云ふ古来の伝説と迷信とを打破して、教祖の一行は恙なく明治三十三年旧六月八日冠島参拝を遂げ、今度更に古来人跡なき神聖なる沓島へ渡つて、天神地祇を初め奉り、生神艮の鬼門大金神を奉祀して天下の泰平や皇軍の大勝利を祈願せむと、陰暦七月八日再び本宮を出立、一行九人は前回同様大丹生屋で船を雇ひ、穏かな海面を辷りながら沓島に向つて漕ぎ出した。
 埠頭の万灯は海水に映じてその色赤く麗しく、港門の潮水は緑色をなし、海湾浪静にして磨ける鏡の如く、百鳥群がり飛んで磯端静に、青松浜頭に列なり梢を垂れ得も言はれぬ月夜の景色を眺めつつ、午後八時半二隻の小舟に乗り、舟人は前回の如く橋本六蔵、田中岩吉の二名これに当り声も涼しく船唄を唄ひながら悠々として漕ぎ出した。満天梨地色に星輝き、波至つて平穏に、恰も海面は油を流した如く、星が映つてキラキラと光つて居る。海月が浮いて行くのまでが判然と見える。銀砂を敷いた上に居るやうな心持がして極めて安全な航海である。博奕ケ岬まで行つた頃は、八日の半絃の月は海の彼方に西渡き経ケ岬の灯台は明々滅々浪のまにまに漂ふて見える。頭の上にも足の下にも、銀河が横つてその真中を敏鎌のやうに冴えた月が静かに流れて、海の果で合するかと疑はれるばかりであつた。舟人の話によれば、
『茲三年や五年に今夜位静穏な海上はない。大方冠島沓島の神様の御守護でありませう。ほんに有り難い、勿体ない』
と喜び勇みながら、赤い褌を締め真裸となつて節面白く船唄を唄ひ出した。
 万波洋々たる海の彼方には、幾百の漁火が波上に浮み、甲艇乙舸競ふて海魚を漁りする壮丁の声は波の音を掠めて高く聞えて来る。この漁火を打見やれば、恰も海上のイルミネーシヨンを見るやうである。舟は容赦なく東北さして漕ぎ出された。二三の釣舟が二三丁ばかり傍に通りかかるのを、二人の船頭は大声で呼びとめる。船頭同志は互に分け隔てなき間柄とて、極めて乱雑な挨拶振り、初めて聞いたものは喧嘩ではないかと疑ふばかりである。この釣舟で一尺二三寸ばかりの鯖を二十尾ばかり買ひ求めて、冠島沓島への供へ物とした。東の空はソロソロと明くなり出した。舟人は褌一つになつて、汗をタラタラ流しつつ力の極み、根限り漕ぎつける。午前八時半無事に冠島の磯際についた。『まあ一安心だ』と上陸し、神前に向つて教祖以下八人は天津祝詞を奏上し終つて、木下慶太郎、福林安之助、四方祐助、中村竹蔵の四名を冠島に残しおき、神社境内の掃除を命じおき、帰途に改めて参拝する事とし教祖を始め出口海潮、出口澄子、四方平蔵、福島寅之助の五人は直に沓島に向つて出発する。福島寅之助は冠島から沓島へ行く間の巨浪に肝を潰し、舟底に喰ひつき時々発動気味になつて唸つて居る。それきり同人はコリコリしたと見え沓島へは再び参らないと云つて居た。
 さて冠島に残された連中が一尺以上も堆高く積つて居る庭一面の鳥糞を掻き浚へ、お庭を清める、枯木や朽葉を集めて社の傍の林の中に掃き寄せる等、大活動をやつて居た。忽ち中村竹蔵が激烈な腹痛を起し七顛八倒する。全く神罰が当つたのだと一同は恐れ入つて謝罪をなし、塵芥を一層遠き林の中へ持ち運んだ。神明聴許遊ばしたか、俄に痛みも止まつたので頑固一辺の中村も、その神徳に感激したやうであつた。教祖の一行は漸くにして沓島に漕ぎついた。流石に昔から人の恐れて近づき得ない神島だけありて、冠島とは大変に趣が違ふてゐる。今日は格別穏かな海だと云ふに拘はらず、山の如きウネリが頻りに打ち寄せて来る。鴎や信天翁、鵜などが岩一面に胡麻を振りかけたやうに止まつて、不思議相に一行を見下ろして居る。波の上には数万の海鳥が浮きつ沈みつ、悠々と遊んでゐる。音に名高き断岩絶壁、小舟を漕ぎ寄せる場所が見つからぬ。ともかくもこの島を一周して適当な上陸点を探らうと評定して居ると、教祖が是非に釣鐘岩へ舟を着けよと云はれる。命のまにまに釣鐘岩の直下へ漕ぎつけて見ると、恰も人の背中の如く険峻な断岩でどうしても掻きつく事が出来ない。愚図々々してゐると、激浪のために舟を岩に衝突させ、破壊してしまふ虞があるから、瞬時も躊躇してをる場合でない。海潮は『地獄の上の一足飛び』と云ふやうな肝を放り出して腰に八尋縄を結びつけたまま、舟が波にうたれて岩に近づいた一刹那を睨ひすまして、岩壁目蒐けて飛びついた。幸にも粗質な岩で手足が滑らぬ、一丈四五尺ほどの上の方に少しばかりの平面な処がある。そこから舟を目蒐けて縄の片端を投げ込めば、舟人が手早く拾ふて舟に結びつける。最早大丈夫だと岩上からは上田の海潮が一生懸命に縄を手繰り寄せる。下からは真正の海潮が教祖を乗せた舟を目がけて押し寄せ、来るや来るや母曾呂々々々に持ち渡す。教祖は手早く縄に縋りながら漸く上陸された。続いて三人も登つて来た。綾部で組み立てて持つて来た神祠をといて、柱一本づつ舟人が縄で縛る、四方と福島がひきあげる。漸く百尺ばかりもある高所の二畳敷ほどの平面の岩の上を鎮祭所となし、一時間あまりもかかつて漸く神祠を建て上げ、艮の大金神国常立尊、竜宮の乙姫、豊玉姫神、玉依姫神を始め、天地八百万の神等を奉斎し、山野河海の珍物を供へ終り、教祖は恭しく祠前に静座して声音朗かに天下泰平神軍大勝利の祈願の祝詞を奏上される。
 話は一寸後前になつたが、第一着に海潮が遷座式の祝詞を恐み恐み白し上げ、最後に一同打揃ふて大祓の祝詞を奏上した。島の群鳥は祝詞を拝聴するものの如くである。何分北は露西亜の浦塩斯徳港までつつ放しの島であるから、日本海の激浪怒濤は皆この沓島の釣鐘岩に打かるので一面に洗ひ去られて、この方面は岩ばかりで土の気は見たいと思ふても見当らなかつた。沖の方から時々寄せ来る山のやうに大きな浪がこの釣鐘岩に衝突して、百雷の一時に鳴り響くやうに、ゴンゴン ドドンドドンと烈しき音が耳を刺戟する。舟人は今日は数年来に見た事のない穏かの波だと云つた浪でさへも、これ位の音がするのだもの、海の荒れた日にはどんなに烈しからうと思へば、凄いやうな心持がして来た。船人の語る所によればこの釣鐘岩には、文禄年間に三種四郎左衛門と云ふ男、数百人の部下を引率れ冠島を策源地として陣屋を構へ、時の天下を横領せむと軍資金を集むるために海上往来の船舶を掠め海賊を稼いで、この岩の頂上に半鐘を釣り斥候の合図をし冠島との連絡をとつて居たので、被害者は数ふるに暇なきまで続出したので、武勇の誉高き豪傑岩見重太郎がこれを聞いて捨ておけぬと計略を以て呉服屋に化け、一人一人舞鶴へ引寄せ牢獄に打ち込み、悉皆退治したと伝ふる有名な島で、その後は釣鐘島、鬼門島と称し、誰もこの沓島へは来たものはないと云つてゐた。しかるに今回初めて教祖が世界万民のために、百難を排して渡り来られ、神々様を奉祀し、天下無事の祈祷をされたのは実に前代未聞の壮挙であると云ふので、東京の富士新聞や福知山の三丹新聞を始めその他の諸新聞に連載された事がある。
 さてこの島を一周りして、奇岩絶壁を嘆賞しつつ冠島へ再び舟を漕ぎ寄せ、一行九人打揃ふて神前に拝礼し、供物を献じ終つてまたこの冠島も一周する事となつた。周囲四十有余丁あり、世界の所在草木の種子は皆この島に集まつてあると云はれてある。昔は陸稲も自然に出来てゐたのを、大浦村の百姓が肥料を施して汚したので、その後は稲は一株も出来なくなり、雑草が密生するやうになつたのだと二人が話しつつ覗き岩まで漕ぎつけて見れば、数十丈の岩石に自然の隧道が穿たれてある。屏風を立てたやうな岩や書籍を積み重ねたやうな岩立ち並び、竜飛び虎馳る如き不思議の岩が海中に立つてゐる。少しく舟を西北へ進めると、一望肝を消すの断巌、一瞻胸を轟かすの碧潮に鯛魚の群をなして縦に泳ぎ、緯に潜み、翠紅、色交々乱れて恰も錦綾の如く、感賞久しうして帰る事を忘れるに至る。此処にしばらく遊んでゐると、十年も寿命がのびるやうである。世の俗塵一切を払拭し去つたやうな観念が胸に湧いて来る。とに角男女を問はず信徒たるものは一度は是非参詣すべき処である。
 九日の夕方、恙なく舞鶴へ帰着し翌十日舞鶴京口町で一行記念の撮影をなし、目出度本宮へ帰る事となつた。

(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 北村隆光録)



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