出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語38-3-131922/10舎身活躍丑 冠島王仁三郎参照文献検索
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第一三章 冠島〔一〇五〇〕

 易に曰く、書は言を尽す能はず、言は意を尽す能はず、意は神を尽す能はず、しかれども言に非ざれば意を現す能はず、書に非ざれば言を載す能はず、抑も聖賢の言、偉人君子の行、忠臣義士の偉挙、貞女節婦の美伝、悉く文字によつて伝へらるるものである。喜楽は性来の人間として鈍根劣機至愚至痴到底教祖の心言行を述べむとするは、甚だ僣越の至りである。しかしながらその一小部分にもせよ、教祖の実行された心言を伝へておかなくては、あたら教祖の心言を土中に埋没する如きものであるから、茲に教祖が冠島に始めて神命を奉じて御渡りになつた事実の大要を述べて見やうと思ふ。
 世必ず非常の人あつて、しかして後非常の事あり、非常の事ありてしかして後に非常の功ありと司馬相丞が言つた。自分が茲に口述する出口直子もまた非常の人たるを信ずる。否貴き神の代表者たるを堅く信じて、茲にその一端を物語らむとするのである。
 日清戦役の後独逸が膠州湾を占領し、露国が旅順大連を租借した行動は甚だ列強国の精神を刺激し、各その均霑を希望する結果、英国は威海衛を、仏国は広州湾を各占領し、露国が鉄道布設権を満洲に得たるに倣ひ、争うて鉄道布設権を清国各地方に獲得せむとし、各自に所謂勢力範囲を策定し、陰然支那分割の状勢を馴致し、東洋の危機正にこの時より甚だしきはなしと思はれた。しかのみならず義和団と称する時勢の大勢を知らざる忠臣義士の一団、これを憤慨すること甚しく、遂に興清滅洋の旗幟を翻して、山東省の各地に蜂起し、所在キリスト教徒を虐殺し鉄道を破壊し、明治三十三年四月初旬、進んで直隷省に入り、忽ち清国の宗室端郡王を擁し、将軍董福祥を中堅とし、五月以来勢益す猩獗をきはめ、六月に及んで北京は全く重囲の中に陥り、独逸公使ケツトレル先づ惨殺せられ、我公使館書記生杉山某また殺害せられた。日本を始め列国は遂に独逸元帥ワルデルデーを総指揮官となし、聯合軍を組織して、太估より並進し、将に北京の団匪に迫らむとする間際であつた。
 開闢以来未曾有の世界の力比べともいふべき晴れの戦争である。この檜舞台に立つて、神国神軍の武勇を現し、列国の侮りを防ぐ必要があるとの御神勅で、教祖は六十五才の老躯を起して、昔から女人の渡つたことのない丹後沖の無人島、冠島俗に大島へ、東洋平和のため、皇軍大勝利の祈願をなさむと、陰暦の六月八日を以て、上田会長、出口澄子、四方平蔵、木下慶太郎の四人を引連れ、五里半の路程を徒歩して、黄昏頃舞鶴の船問屋、大丹生屋に着し、渡島の船頭を雇ひ、これから愈漕ぎ出さうとする時しも、今まで快晴にして極穏かであつた青空が俄にかき曇り、満天墨を流した如く風は海面をふきつけ、波浪の猛り狂ふ声、刻々に激しく聞えて来た。大丹生屋の主人は、
『この天候は確に颶風の襲来なれば、今晩の舟出は見合はしませう。まして海上十里の荒い沖中の一つ島へ、こんな小さい釣舟にては到底安全に渡ることは出来ませぬ、一つ違へば、可惜貴重の生命を捨てねばならぬ、明日の夜明を待つて、天候を見きわめ、これで大丈夫といふことがきまつてから御参りなさい』
としきりにとどめる。また舟人も異口同音に、到底海上の安全に渡り得べからざることを主張して、舟を出さうとは言はぬのみか、一人減り二人減り、コソコソとどこかへ逃げて行つてしまうのであつた。教祖は、
教祖『神様の御命令だから、そんなことを言つて一時の間も猶予することは出来ませぬ。是が非でも今から舟を拵へて出て貰ひたい。今晩海のあれるのは竜宮様が私等の一行を、喜び勇んでお迎へに来て下さるために、荒い風が吹いたり、雨が降つたりするのだ。浪の高いのは当然だ。船頭サン、大丈夫だ、神さまがついてござるから、少しも恐れず、早く舟を漕ぎ出して下さい。博奕ケ崎まで漕いで行けば、屹度風はなぎ、雨はやみ、波も静まります。天下危急の場合だから、一刻も躊躇することは出来ぬ。死ぬるのも生るのも皆神様の思召によるものだ。神様が死なそまいと思召すなら、どんなことがあつても死ぬものぢやない、信仰のない者は一寸したことに恐れるものだ、が今度は大丈夫だから、是非々々行つておくれ』
と雄健びして船頭の主人の言葉を聞き入れる気色もなかつた。大丹生屋の主人を始め、一同の舟人等は小さい声で、
『金もほしいが命が大事だ。こんな気違ひ婆アさんの命知らずの馬鹿者に相手になつて居つては堪らぬ』
と嘲笑的に囁き、ただの一人も応ずるものが無い。一行五人は如何ともすること能はず、只管一時も早く出舟の都合をつけて下さいと橋の上に合掌して祈りつつあつた。木下は操舟に鍛練の聞えある漁師、田中岩吉、橋本六蔵の二人を甘く説きつけて帰り来り、
『只今より冠島へ連れて行てくれ』
と改めて頼み込むと、二人は目を丸うして、
『なんぼ神さまの命令でもこの空では行けませぬ。私等も永らくの間、舟の中を家のやうに思ひ、海上生活をやつて居ります故、大抵の荒れならこぎ出して見ますが、この気色では到底駄目です。一体あんた等は何処の人ぢや本当に無茶な人ですなア』
と呆れて一行の顔を見つめて居る。教祖は切りに促し、
教祖『早く早く』
と急き立てられる。船頭は返事をせぬ。かくては果じと、二人の船頭に向つて、
『海上一町でも半里でもよいから、冠島までの賃金を払ふから、マア中途から帰る積りで往つてくれ』
と木下が云つた。二人の船頭は、
『お前さまたちが、そこまで強いて仰しやるのならば、キツと神様の教でありませう、確信がなければ、到底この気色に行くといふ気にはなれますまい。私も一寸冠島さまに伺つてみて決心します』
といひながら、新橋の上に立つて、冠島の方に向ひ合掌祈願しつつ、俄作りのみくじを引いて見て、
『ヤツパリ神様は行けとありますから、ともかく行ける所まで漕ぎつけて見ませう』
と半安半危の気味で承諾の意を洩らしつつ、早速用意を整へ五人を乗せて潔く舞鶴港を後にして、屋根無し小舟を操り、雨風の中を事ともせず、自他七人の生霊を乗せ、舟唄高く漕ぎ出した。
 海上二里ばかり漕ぎ出たと思ふ頃、教祖のさして居られた蝙蝠傘がどうした機みか、俄に波にさらはれ取おとされたと見る間に、舳に立つて艪を操つてゐた、舟人の岩吉が目ざとく見とめて、拾ひ上げた。時しも舟底に肱を枕にして、ウツウツ眠つて居た澄子は忽ち目を醒まし、
澄子『アヽ吃驚した、今平蔵サンが、誤つて海中に陥り、命危い所へ教祖さまのうしろの方から、威容凛然たる神様が現れて、平蔵サンを救ひ上げ、息を口から吹き込んで蘇生せしめられたと思へば、ヤツパリ夢であつたか』
と不思議相に語り出す。一行一層異様の思ひをなし、教祖の持つてこられた蝙蝠傘をよくよく調べて見れば、正しく平蔵サンの傘であつた。至仁至愛の大神は、教祖さまをして身代りのために、平蔵氏の傘を海におとさしめて、その危難を救ひ、罪を浄め、新しい人間と生れ変はらして下さつたのでせう……と各自に感歎しながら、狭い舟の中に静座し、膝をつき合せながら、一同が謝恩の祝詞を奏しつつ、勇み進んで、雨中を漕ぎ出した。
 こんなことを述べ立てると、信仰なき人は、或は狂妄といひ迷信と誹り、偶然の暗合と笑ふであらう。神異霊怪なるものの世にあるべき道理はないと一笑に附して顧みないであらう。さりながら天地の間は、すべて摩訶不思議なものであることは、本居宣長の玉鉾百首にもよまれた通りである。

 あやしきを非じといふは世の中の
  怪しき知らぬしれ心かも

 しらゆべきものならなくに世の中の
  くしき理神ならずして

 右の歌の意の如く、天地間は凡て奇怪にして人心小智の伺ひ知るべき限りではない。しかるに中古より聖人などいふ者出で来りてより、怪力乱神を語らずとか、正法に不思議なしとか悟り顔に屁理屈を振りまはしてより、世人の心は漸次無神論に傾き、神霊霊怪を無視し、宇宙の真理を得悟らざるに至り、至尊至貴万邦無比の神国を知らざるに立到つたのである。また玉鉾百首に、

 からたまのさかしら心うつりてぞ
  世人の心悪しくなりぬる

 しるべしと醜の物知りなかなかに
  よこさの道に人まどわすも

とよまれてあるのも実に尤もな次第である。却説舟人の一生懸命にこぐ舟は早くも博奕ケ岬についた。教祖の言あげせられた如く、ここまで来ると、雨は俄に晴れ、風はなぎ波は静まつて、満天の星の光は海の底深く宿つて、波紋銀色を彩どり、雲の上も海の底も合せ鏡の如く、昔の男の子の、

 棹はうがつ波の上の月を、
  波はおそふ海の中の舟を

を思ひうかべ実に壮快の気分に打たれた。

 影見れば浪のそこなる久方の
  空こぎわたる我ぞわびしき

といふ紀貫之の歌まで思ひ出され、一しほ感興深く進む折しも、ボーツと海のあなたに黒い影が月を遮つた。舟人は、
『あゝ冠島さまが見えました』
と叫んだ時の一同の嬉しさは、沖の鴎のそれならで、飛立つばかり、竜神が天に昇るの時を得たる喜びもかくやあらむと思はれ、得も言はれぬ爽快の念にうたれた。
 しばらくあつて東の空は燦然として茜さし、若狭の山の上より、黄金の玉をかかげたる如く、天津日の神は豊栄昇りに輝き玉ひ、早くも冠島は手に取るばかり、目の前に塞がり、囀る百鳥の声は百千万の楽隊の一斉に楽を奏したるかと疑はるるばかりであつた。かの昔語にとく所の浦島子が亀に乗つて、竜宮に往き、乙姫様に玉手箱を授かつて持ち帰つたと伝ふる竜宮島も、安部の童子丸がいろいろの神宝や妙術を授けられたといふ竜宮島もまた、古事記などに記載せられたる彦火々出見命が塩土の翁に教へられて、海に落ちたる釣針を捜し出さむと渡りましたる海神の宮も皆この冠島なりと云ひ伝ふるだけあつて、どこともなく、神仙の境に進み入つたる思ひが浮かんで来た。
正像末和讃にも
末法五濁の有情の行証叶はぬ時なれば、釈迦の遺法悉く竜宮に入り玉ひにき。
 正像末の三時には弥陀の本願広まれり、澆季末法のこの世には諸善竜宮に入り玉ふ
とあるを見れば仏教家もまた非常に竜宮を有難がつて居るらしい、かかる目出たき蓬莱島へ恙なく舟は着いた。
 翠樹鬱蒼たる華表の傍、老松特に秀でて雲梯の如く幹のまわり三丈にも余る名木の桑の木は冠島山の頂に立ち聳え、幾十万の諸鳥の声は教祖の一行を歓迎するが如くに思はれた。実に竜宮の名に負ふ山海明媚、風光絶佳の勝地である。教祖は上陸早々、波打際に御禊された。一同もこれに倣うて御禊をなし、神威赫々たる老人島神社の神前に静かに進みて、蹲踞敬拝し、綾部より調理し来れる、山の物川の魚うまし物くさぐさを献り、治国平天下安民の祈願をこらす、祝詞の声は九天に達し、拍手の声は六合を清むる思ひがあつた。これにて先づ冠島詣での目的は達し、帰路は波もしづかに九日の夕方、舞鶴港の大丹生屋に立帰り、翌十日またもや徒歩にて、数多の信者に迎へられ、目出度く綾部本宮に帰ることを得たのである。あゝ惟神霊幸倍坐世。

(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 松村真澄録)



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