出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語37-4-231922/10舎身活躍子 海老坂王仁三郎参照文献検索
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第二三章 海老坂〔一〇三五〕

 小林貞蔵氏の宅で四五日ばかり滞在してゐる間に、村中の老若男女が集まり、鎮魂を受けたり、神懸の修行をしたりして、神徳の広大なるに感謝し、全部信者となつてしまつた。小林氏はせめて一月ばかり自分の宅に居つて貰ひたいと頼むのも聞かずにこの家を立出で、信者から二三円ばかりの礼を貰ひ、それを以て北桑田へ渡らむと、日の暮前から神の命のまにまに海老坂峠まで差かかつた。日はズツポリと暮れ、その上に坂路のこととて、最早一歩も進む事が出来なくなつた。この坂路の中途に古寺が建つてゐる。そして古い堂に地蔵が祀つてあつた。止むを得ず喜楽はこの堂へ這入つて一夜を明かさうと、仏壇の前でゴロリと横たはりそのまま眠に就いた。
 夜中時分に妙な物音がしたので、フト目を醒まして見れば、黒い提灯をさげた大坊主が堂の入口に立ち、大きな声で心経を唱へてゐる。喜楽は驚いて起上ると、坊主は大きな声で、
坊主『断りもなくこの堂に寝てゐる奴は何者だ。怪しからぬ、サア早く出て行け!』
と呶鳴りつける。喜楽は起あがり、一寸頭を下げて、
喜楽『お和尚サン、誠に済まぬ事を致しましたが、私は霊学の修行者で、神道を開きに歩いて居る者でござりますが、思ひの外道が遠かつたので、途中に日が暮れ、一寸失礼さして貰ひました。どうぞ今晩だけ此処で泊めて下さいな』
坊主『神道の行者が仏の堂で泊まるといふ事があるものか。お前サンはイカサマ神道家だ。売僧坊主だなア』
と自分の坊主たる事を忘れて、声に角を立てて呶鳴つてゐる。
喜楽『神さまも仏さまも元は一株だから、そんな区別を立てずに今晩だけ泊めて下さい』
坊主『ウンさうか、神も仏も一株だといふのか。中々お前はよう分つたことを言ふ。そんなら今晩は泊まつて下さい。しかしここでは仕方がないから庫裏の方へ来て下さい。何だか地蔵堂が気にかかつて寝られぬので、一寸見に来たのだ。お茶なつと進ぜよう』
と打つて変つた砕け方に喜楽はヤツと胸をなで卸し、大坊主に導かれて、庫裏の方へついて行つた。
 この寺はこの坊主一人より外に誰も人らしい者は住んで居なかつた。ソロソロと身の上話を互に始めて見ると、不思議にもこの坊主は喜楽の伯母の嫁入つて居た、南桑田郡千代川村字今津の人見弥吉といふ伯父の兄の子であつた。子供の時には四五回も遊んだことのある人見与三郎といふ男で、放蕩の結果親の財産を残らずなくしてしまひ、それから園部監獄の看守となり、巡査も勤め、これもまた酒のために免職さされ、それから易者を習ひ、真言秘密の法を覚え、無住の寺を幸ひ、留守坊主に雇はれてゐた事が分つた。この奇遇に両人は打とけて、いろいろの事を語り合ひ、ここに四五日逗留して、人見に鎮魂帰神の霊術を教へてやり、後日の再会を約して海老坂峠を北へ渡り、安懸といふ田舎の村まで辿り着いた。
 さうすると俄に警鐘が響く、太鼓が鳴つて来る。村人は『野添に火事がある!』と云つて、一生懸命に鳶口や竜頭水、水桶などを持つて駆出す。喜楽も村人の後から走つて野添といふ小村まで従いて往つた。しかしながら何処にも煙は立つてゐず、火事らしきものも無かつた。されど野添の寺の鐘や太鼓が頻りに鳴つてゐる。向うから走つて来た人の話によると、深い井戸を掘つてゐた所、俄にウラが来て、井戸掘人足が埋まつてしまつたから、掘り出すために、近在の人を集めるための警鐘太鼓であつた事が分つた。
 行つて見れば百人ばかりの人が井戸の端へ寄つて、鶴嘴や鍬で井戸から四五間わきの方から掘りかけてゐる。グヅグヅしてゐると、埋つた土砂と水のために息が切れてしまふ虞がある。喜楽は忽ち大地に瞑目静坐して神勅を受けた。さうすると腹の中から、
『小松林だ』
といふ声が出て来て、
『種油を五六升、井戸の中へまくか、油がなければ酢を一斗ばかり撒け』
といふ神勅が下る。そこでその由を村人に告げてやると、忽ち酢屋から五升樽を二つばかり持つて来て、井戸の中へダブダブと投込んだ。そして大勢がよつて集つて二時間ばかりかかつて、埋つた人足を引上げて見た。幸ひに息は絶えて居なかつた。その男は口中某といふ男であつた。その男の話によると、
口中『俄にウラが来て土砂に埋められた時、幸ひ横の方から出てゐた大きな石の下に体をのがれ、腰から下は水にひたり、体中土砂につめられたけれ共、突出た石のおかげで首だけは自由に動く事が出来た。追々息は苦しくなつて、最早生命が終るかと思つて居ると、俄に酢の匂ひがして来て、息が楽になりました。その時にどこともなしに小松林が……今お前の生命を助けてやらう……といふ声が聞えました』
と嬉し泣きしながら物語つてゐる。大勢の人々は喜楽に向つて、非常に感謝をし、二三日逗留してくれといふので、口中の家に泊つて、霊学の話をしてゐた。しかしこの村は大部分船岡の妙霊教会所の信者であつた。そしてその教会の会長といふのが、喜楽の伯父に当る佐野清六といふ教導職であつたため、宗教上の関係から村人の止めるのも聞かず、園部の会合所へ帰つて来た。
 それよりこの附近の人々は船岡の妙霊教会へ参拝の途次、黒田の会合所へ参拝して帰る者も沢山にあつた。また小林貞蔵氏も沢山な信者を伴れて、黒田の会合所へ幾度となく参つて来た。
 因に海老坂の地蔵堂の留守坊主であつた人見与三郎は、何とかいふ法名を持つてゐたが忘れてしまつた。大正六年頃大本へやつて来て、門掃きやその他種々の事を手伝ふてゐたが、再び村人の請ひによつて、元の地蔵堂へ帰つてしまつた。
 船井郡紀井の庄村木崎の、森田民といふ五十余りの婆アサンに稲荷サンがのり憑り、沢山な信者が参拝するのを聞き、明治三十二年の五月の末、喜楽は羽織袴をつけず、普通の百姓のやうな風をして、一ペンどんな神憑だか調べて見ようと思ひ、信者に紛れて行つて見た。
 産土の大宮神社の一町ばかり上の方にクヅ屋葺の小さい家があつて、その横に六畳敷ばかりの新しい紅殻染の家が立つてゐた。その前に小さい祠が赤く塗つて建ててある。そして焼物の狐が四つばかり祀つてあり、小さき鈴をつつて、赤や白や黄色の鐘の緒が一尺五寸ばかり垂れ下がり、それに何歳の男とか女とか書いて五筋六筋づつ下がつてゐる。数十人の老若男女の参詣者を背後にして、その婆アサンは祠の前にしやがみ、鈴をからからとふつては、
婆『あゝ左様か、へー、さやうですか、オホヽヽヽヽ』
などと独り言をいうてゐるかと思へば、また、
『只今何村の何某といふ何才の男が、病気で困つて居りますが、これはどうしたら直りますか?』
と云つては手を拍ち、
『あゝ左様か、分りました』
と云ひ、また次の伺ひをしては、
『あゝ左様か、そんなら大バコを煎じて呑ませばよいのですな。ヘー黒豆と柳の葉とまぜてどすか、ハイそない言うてやります』
と云うてる。一わたり伺ひがすむと、記憶のよい婆アサンと見えて、一々病気の様子から薬のさしづをやつてゐる。不思議なことには、この婆アサンの指図によつて大体の病気は治つたといふことである。そこで一つ可笑しい事は、一人の婆アサンが心配相な顔して伺つて居た。その次第は、
女『何遍嫁を貰うてもすぐに帰つてしまふので、両親も心配を致して居りますが、嫁が育たぬのは何ぞ先祖の祟りでもあるのか、但は家相でも悪いのですか、一遍伺うて下さい』
といふ。沢山の信者は一人も残らず帰つてしまつた後には、お民といふ婆アサンと、今尋ねてゐる五十ばかりの女と喜楽と三人であつた。
 お民は早速例の祠の前で伺ひを立て、
お民『義経大明神さま、桂大明神さま、玉房大明神さま、玉芳大明神さま』
と連呼しながら、以前の女の願を伺つてゐる。そして時々『ホヽヽヽヽ』とこけるやうにして笑ふ。しばらくするとお民サン此方へやつて来て云ふには、
お民『お前さんとこの息子はコレで嫁さんを五人貰うたでせう。皆帰つたのは肝腎のお道具が蓑○になつてるから、それで皆帰つてしまはれるのですから、此奴ア一寸六つかしいものです。毛抜で抜いた所でまた生えますサカえなア』
女『何とかお稲荷サンのおかげで治して頂く訳には行きませぬか』
と心配相にお民の顔を覗き込む。お民サンは首を傾け、
お民『マア信心して見なさい。信心さへ通つたら、神さまの事ですから、何とかして下さりませう。サアもう帰つて下され。私はこれから一つ行をせなならぬのです。神さまが大変お急きですから……』
といつて体よく帰してしまつた。そしてお民婆アサンは喜楽に向ひ、
お民『先生、あなたは黒田の御方ですやろ。信者に化けて私を調べに来なさつたなア。神さまが先生に頼んで、教導職を受けるやうに手続きをして貰へと言うてゐやはります。どうぞお世話をして下さいな』
喜楽『お前サンは普通の御台サンと違うて仲々よう分る人だ。そして焼物の稲荷サンに向つていろいろと話しをしてござつたが、あんな焼物の稲荷サンが物言ひますか』
と尋ねて見ると、お民サンは、言下に、
お民『へーへー言ははります共、今あの帰んだお方の息子はんの事を伺ひましたが、妙でしたよ。私がジツとして焼物の稲荷サンを見つめて居ると、稲荷サンの股から、突然にポコンと○○が現はれ、先まで毛が一杯生えて居りましたので、私が稲荷サンに向つて、……この男は蓑○だから、それで嫁さまが居りつかぬのどすか、と尋ねましたら、オヽさうだと言はれました。オホヽヽヽ』
と笑うて居る。そして、
お民『先生も一ぺんあの稲荷サンの前で問うて見なさい』
とすすめるので、稲荷の前にしやがんで、いろいろ問答をしてみたけれど、何ともかんとも一口も答へなかつた。それからお民サンの霊感者になつた来歴を尋ねて見ると、左の通り面白い経歴を物語つた。
お民『私と内の太吉サンと二人が薩摩芋や桑を作つてゐますと、毎年毎年薩摩芋を掘つて食ふ奴がある。雪隠のおとしわらを引張り出し、肝腎の肥にする糞まで食つてしまうので、大方裏の山に棲んでる奴狐奴が芋や糞を食ふのに違ひないから、一つくすべて捕つてやらうと相談をきめて、太吉サンと私と伜の留吉と三人が、一方の穴を松葉でくすべ、一方から掘つて居た所、夫婦の狐が子二匹うんで居りました。おのれ糞ぐらひ狐めが……と、いきなり親子三人が備中鍬を振り上げて、その狐を四匹とも叩き殺し、皮は下木崎の新平サンに売り、肉の甘い所は食つてしまひました。さうすると三日目から私の体中が、水腫れになり、苦しうて苦しうて堪らず、お櫃を開けると狐の顔が中に居る、雪隠へ行つても狐が居る。終ひには何もかも残らずそこらが狐の顔になり、恐い顔してねめつけますので、私が狐に向つて……コレお前妾が大事にして作つた芋を毎年取つて食ひ、肥料にせうと思うた糞まで食たくせに、何が恨めしうてアタンをするのだと云ひますと、狐の親子四匹が、そこへ出て来て云ふには、芋を食たのも、糞を食たのも皆木崎の丸といふ犬の所作だ。それに私達親子の命を取り、皮を売り、肉まで食うとは余りだから、お前等親子三人の命を取り、弟の髯定の命も取らねば承知せぬと云ふて怖い顔して睨めつけました。そこで私が狐に向つて……ソラ誠にすまなんだ。お前もモウかうなつては仕方がない因縁ぢやと諦めて下さい。私等の命を取つた所で、お前の命が助かる訳もなし、どうぢやここは一つ相談だが、コレからお前を神サンに祀つて上げるからどうぞ勘忍してくれと頼んで見た所、中々淡白した狐で……さうぢや、お前のいふ通り、命を取つて見た所で仕方がない、わしを祭つてくれるのなら勘忍てやろ、その代りに人を助けて、病気を治したり、いろいろの事を知らしてやるから、お前は私の容れ物になつて、モウ今日限り仕事なんかすることはならぬぞ。その御礼に毎日七銭づつのお金をやらう……と云ひました。そして四匹の狐に義経大明神、桂大明神、玉房大明神、玉芳大明神と名をつけて祭つてくれと云ひましたので、この赤い祠を建てて祭つて居ります。さうすると沢山の人が参つて来て、一文供へていぬる人や五厘包んでくれる人や、中には二十銭もはり込んで供へてくれる人もありますが、妙なもんで、一月ためて置くとヤツパリ二円十銭で、一日に七銭の割になつて居ます。七銭さへあれば一寸米が七合ばかり買へますから、私だけ食ふには不自由はございませぬ』
と真面目くさつて話してゐる。喜楽は、
喜楽『何と妙な狐サンぢやなア。それだけ何もかもよく分るのなら、私の事も一つ伺つて貰へまいかなア』
ときりだすと、お民サンは言下に、
お民『あんたは今園部の人が沢山寄つて、公園の中で教会を建て、あんたを先生になつて貰はうと云うて騒いでゐる。そして先生もならうかなアと思うてござるやうだが、あんたの納まる所はこれから七里ほど西北に、チヤンときまつて居ます。モ一月ほどしたら迎へに来る人があります。あんたの嫁サンもチヤンときまつてますで、お澄サンといふ名ですワ』
と事もなげに言ふ。喜楽は昨年の秋、綾部へ行つた時、教祖にお竜サンといふ娘のあることは聞いてゐたが、お澄と云ふ娘のある事は知らなかつた。そこで大方四方すみ子の事ではあるまいかとも思うてみた。しかし綾部へは殆ど十里ある。七里と云ふのは可笑しい。大方和知の方面に自分の行く所がきまつて居るのかなアとも考へても見た。それからお民に別れて黒田の会合所へ帰つてみると、綾部より四方平蔵として封書が来てゐる。開いて見れば、
『田の植付けが済み次第、出口教祖さまの御命令で、御相談に参りますから、どうぞ何処へも行かずに待つてゐて下さい……』
といふ意味が認めてあつた。……また綾部の連中から呼びに来るのかなア、モウ去年のやうな事なら行かぬがましだ……と、気にもとめず、またお民の神占をも半信半疑で、手紙の事などもスツカリ忘れてゐた。
 所へ園部川で漁のため瓶付をしてゐたら、四方氏が訪ねて来たので、いよいよ綾部へ行く事となり、今度は落付いて教祖と共に金明会を開き、御用をする事となつた。

(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 松村真澄録)



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