出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語37-1-21922/10舎身活躍子 葱節王仁三郎参照文献検索
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第二章 葱節〔一〇一四〕

 西は半国東は愛宕  南妙見北帝釈の
 山の屏風を引きまはし  中の穴太で牛を飼ふ

 青垣山を四方に回らした山陰道の喉首口、丹波の亀岡にほど近き、曽我部村の大字穴太は瑞月王仁が生地である。賤ケ伏屋に産声を上げてより殆ど廿七年夢の如くに過ぎ去り、廿八歳を迎へた明治卅一年の如月の八日、半円の月は皎々として天空に輝き渡り、地上には馥郁たる梅花の薫り、冷き風に送られて床しく、人の心も華やかに何となく春を迎へた気分に漂ふ。
 瑞月はその頃事業の閑暇に浄瑠璃を唸る事を以て唯一の楽みとして居た。浪華の地より下つて来た吾妻太夫といふ盲目の男の師匠に、終日の業を済ませ、三味は無けれども叩きにて節を仕込まれて居た。
 今宵は浄瑠璃の稽古友達の七八人、温習会を催すべく、大石某と云ふ知己の家で女義太夫を雇ひ来り、ベラベラ三味線をひかせながら、葱節を得意気になつて呶鳴つて居た。下手の横好きとか云つて、最初の露払を勤めたのは瑞月で、鏡山又助館の段を、汗みどろになつて語り終り、その外二三人の天狗連の、竹筒を吹いたやうな奴拍子のぬけた声の浄瑠璃が止むと、再び三月の菱餅を二つに切つたやうな硬々した角立つたものを着せられ、破れ扇をたたいて唸つて居る。その時は太閤記の十段目光秀が『夕顔棚の此方より現はれ出でたる………』と云ふ正念場であつた。老若男女は小さき百姓家に縁の隅から庭は云ふに及ばず、遅れて来たものは門に立つて聞くと云ふ大盛況である。
 その時宮相撲をとつて居た若錦と云ふ男を先頭に、侠客の小牛、留公、与三公、茂一の五人連れ、矢庭に演壇に上り、有無を云はせず瑞月を担いで附近の桑畑の中へ連れ行き、打つ、蹴る、殴るの大乱痴気騒ぎを始めた。
 浄瑠璃友達で隣家の嘘勝と云ふデモ侠客が二三人の手下を引き連れ、二尺ばかりの割木を各自に持つて五人の仲に飛び込み格闘を始めた。喧嘩は何時の間にか一方へ転宅してしまひ、バラバラバラと喚きつつ東南の方へ逃げて行く。嘘勝の一隊は後を追つかける。
 その後へ二三の友人がやつて来て、瑞月を助けて牧畜場の精乳館と云ふ自分の館へ連れて帰つてくれた。ひどく頭部を五つ六つ割木で殴られた結果、何とはなしに頭が重たくなり、うづき出し、耳はジヤンジヤンと早鐘をつくやうに聞えて来た。時々火事の警鐘ではないかと、負傷した身体を擡げて戸を開き外を眺めた事もあつた。
 精乳館は牛乳を搾り附近の村落に販売するのが営業であつた。牛乳配達人は未明からやつて来て搾乳の量り渡しを待つて居る。瑞月は頭痛み目晦めき、搾乳どころの騒ぎではない。二十数頭の牧牛は空腹を訴へたり、乳の張り切るため悲し相な声を出して一斉に呻り出した。その声が頭に響くと一層頭が割れるやうな気分がする。それでも神様を祈らうとも思はねば、医者を呼び、薬を付けやうとも飲まうとも思はない。ただ自分の心裡に往復して居るのは、今迄大切に思ふて居た営業はスツカリ忘れてしまひ、若錦一派の奴に対し、早く本復して仕返しの大喧嘩をやつてやらねばならぬと、そればかりを一縷の望みの綱として居た。門口の戸も裏口の戸も錠が卸してある。それ故配達人は這入る事も出来ぬ、已むを得ず宮垣内の母の宅へ走り、
『何故か門口が締つて居る、一寸来て下さい』
と云つて母を呼びに行つた。相手方の村上某が軈てやつて来る時分だから自分の昨夜の喧嘩で負傷した事を見られては余り面白くないと、負惜みを出して、頭を手拭で縛り目をふさいだまま、慣れた道とて、自分の嘗て借つて置いた喜楽亭と云ふ郷神社の前の矮屋に隠れ頭から夜具を被つて息をこらして横つて居た。
 しばらくすると、門口から自分の名を呼びながら、慌しく母が這入つて来られた。瑞月は、
『こりや大変だ、昨夜の喧嘩が分つたのだらう、額口の傷を見られないやうに……』
と夜具をグツスリ被り、足の膝から先は出るほど縮んで、寝たふりをして居た。遠慮会釈もなく母は夜具をまくり上げ、
『お前はまた喧嘩をしたのだなア。去年までは親爺サンが居られたので誰も指一本さえる者も無かつたが、俺が後家になつたと思ふて侮つて、家の伜をこんな酷い目に会はしたのであらう。去年の冬から丁度これで九回目、中途に夫に別れるほど不幸の者はない、また親のない子ほど可愛相なものは無い。弟の由松は、兄の讐討だとか云つて若錦の処へ押掛け、反対に頭をこつかれて、血を出して帰つて来て家に唸つて居る。兄はまたこの通り、神も仏もこの世にはないものか』
と自分の子が悪いとは思はず、加害者を怨んで居られる。これを聞くと自分も気の毒で堪らなくなり、傷の痛みは何処へやら逃げ去つてしまつた。
 実際の事を云へば自分は、今迄父がブラブラ病で二三年間苦しんで居たので、それが気にかかり、云ひたい事も云はず、父に心配をさせまいと思ふて、人と喧嘩するやうな事は成るべく避けるやうにして居たから、村の人々にも若い連中にも、チツとも憎まれた事は無く、却て喜楽さん喜楽さんと云つて重宝がられ、可愛がられて居たのである。そうした処、明治三十年の夏、父は薬石効なく遂に帰幽したので、最早病身の父に心配さす事もなくなつた。破れ侠客が田舎で威張り散らし、良民を苦しめるのを見る度に、聞く度に、癪に触つて堪らない。頼まれもせぬのに、喧嘩の中へ飛び込んで仲裁をしたり、終には調子に乗つて、無頼漢を向ふへまはし喧嘩をするのを、一廉の手柄のやうに思ふやうになつた。二三遍うまく喧嘩の仲裁をして味を占め、
『喧嘩の仲裁には喜楽さんに限る』
と村の者におだてられ、益々得意になつて、
『誰か面白い喧嘩をしてくれないか、また一つ仲裁して名を売つてやらう』
と下らぬ野心にかられて、チツと高い声で話して居る門を通つても、聞き耳立てるやうになつて居たのである。
 その頃、亀岡の余部と云ふ処に干支吉と云ふ侠客があり、その兄弟分として威張つて居た宿屋の息子の勘吉と云ふ男、身体も大きく背も高く、力も強く、宮相撲をとつて遠近に鳴らして居た。そしてその父親は三哲と云つて、附近で名の売れた侠客であつた。その息子の勘吉がまたもや非常に売り出し、村の者は大変に困つて居た。第一賭場を開いて毎日毎夜テラを取り、乾児の四五人も養ふて居つた。自分の弟も勘吉の賭場へ毎日毎夜出入し、自分の時計を売り衣類を売り、終ひには夜の間に数百円を投じた乳牛をひき出し、亀岡あたりで五六十円に投げ売りして、それを賭博の資とする。自分が意見をすると、勘吉親分を傘にきて梃にも棒にもおへない。村中の息子は鼠が餅をひくやうに、今日も一人、明日も二人と云ふ調子で、勘吉の賭場に引込まれ、親達は非常に嘆いて居る。けれども勘吉の耳に這入つては如何な事をしられるか知れぬと思ひ、各自に小声で呟いて居るのみであつた。
 これを聞いた自分は腹が立つて堪らず、火事場に使ふ鳶口を担たげて、河内屋の勘吉が賭場へただ一人、夜の八時頃飛び込み、車坐になつて丁半を闘はして居た弟の帯に鳶口を引つかけ、二三間引摺り出した。そうすると親分の勘吉が巻舌になつて、
『男を売つた勘吉の賭場へ賭場荒しに来よつたのか、素人の貴様にこんな事しられて黙つて居つては男が立たぬ。……オイ与三公、留公、喜楽をのばしてしまへ』
と号令をかけて居る。自分は逃ぐるが奥の手と、尻を後へつき出し二つ三つポンポンとたたいたきり、一目散に牧場に逃げて帰つて来た。そして門の閂を堅く締めて、もしも戸を打破つて這入るが最後、打ちのばしてやらうと、椋の棒を持つて外の足音を考へて居た。
 その夜は何の事も無かつた。勘吉も口ほどにない奴だと安心して牧場に眠つて居ると、夜の十時頃、二三の乾児を連れて門口へやつて来た。そして、
『オイ喜楽、一寸用があるから外へ出てくれ』
と呶鳴つて居る。流石に先方も、迂闊に這入つて鳶口でやられては堪らぬと思ふたか、門口に立つて誘ひ出してゐる。自分は故意とに作り鼾をして寝たふりをして居た。そして樫の棒を寝床の横に置いてあつた。しばらくすると女の声で、
『あんたハン、立派な侠客サンぢやおまへんか、たつた一人の、あんな弱々しい喜楽サンに喧嘩に来るなんて、男が下りまつせ、さアあんたハン、一杯桑酒屋へ飲みに行きまほ』
と勘吉の頬辺をピシヤピシヤたたいて居る音が聞えて来た。この女は中村の多田亀と云ふ老侠客の娘で、多田琴と云ふ女である。ある機会から妙な仲となつて居つた。その琴が中村から遥々とやつて来て、門口で河内屋に出会ふたのである。流石の侠客も、横面をやさしい声で殴られてグニヤグニヤになり、五六丁下の吉川村の桑酒屋へ酒を飲みに行つてしまつた。
 それから自分は多田琴の父親の多田亀に就いて侠客学問を研究し始めた。多田亀の云ふのには、
『侠客になつて名を挙げやうと思へば、頭を割られたり、腕の一本位とられなくては本物にならぬ。此方が生命を捨てる気になれば、何百人の敵も逃げるものだ。とに角気転が第一だ』
と自分の娘の情夫と知りながら、碌でもない事を一生懸命に教へてくれた。さうして多田亀の云ふのには、
『俺の乾児も大分沢山あるのだが、跡を継がす者がない。これからお前に仕込んでやるから、この乾児を捨てるのは惜いから、若親分になつたらどうだ。お米サン(瑞月の母)に相談して、お前サンを此方の養子に貰ふ積だ。此方も一人の娘をお前サンの自由にさして、黙つて居るのについては考へがあるのだ。よもや一時のテンゴに、俺の一人娘をなぶり者にしたのぢやあるまいなア』
と退引させぬ釘をさされた。
 父の居る中から、上田の跡は弟に継がして貰ひたいと云つて頼んで居つた。両親は亀岡のある易者に卦を立てて貰ひ、
『この子は総領に生まれて居るけれども、親の屋敷に居つては若死をするから養子にやつたが良い』
といつたとかで、両親は已に自分の養子に行くのを承認してしまつた。しかし侠客の養子にやらうとは思うて居なかつたのである。
 自分は幼時から貧家に生れ、弱者に対する強者の横暴を非常に不快に感じて居た。人間は少しく頭をあげて金でも貯めれば、如何な馬鹿でも賢う見られ、敬はれるが、少しく地平線下に落ちると、子供までが寄つて集つて踏みつけやうとする。事大思想の盛んな田舎では尚更はげしいのである。何でも一つ衆に擢んでなければ頭があがらない、生存の価値がないと、幼時から思ひつめて居た。学問が無ければ官吏になる事も出来ず、軍人に成りたうても成れず、弱い者を助け、強い者を凹ます侠客になつた方が、一番名が挙がるだらうと下らぬ事を考へ、幡随院長兵衛のちよんがれを聞いて、明治の幡随院長兵衛は俺がなつてやらうかとまで思ふ事が屡々あつた。その平素の思ひと強者に虐げられた無念とが一つになつて、社会の弱者に対する同情心が、父の帰幽と共に突発し、生命懸けの侠客凹ませを企て、猪口才な奴と彼等が社会から睨まれて居たから、一年経たぬ中に九回までも酷い目に会はされたのである。もしも神様の御用をせなかつたらば、自分は三十四五までに叩き殺されて居るかも知れないと思ひ浮べて、神様の御恩がシミジミと有難くなつて来たのである。
 自分は母の言葉の如く、決して父が逝くなつたために侠客に苦しめられたのではない、つまり自分から招いた災である事をその時已に自覚し得たのである。

(大正一一・一〇・八 旧八・一八 北村隆光録)



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