出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語01-1-31921/10霊主体従子 現界の苦行王仁三郎参照文献検索
キーワード: 物語
詳細情報:
場面:
高熊山
あらすじ
 修行は一時間神界、高熊山に座って霊魂だけで修行、二時間現界の割合。神界の修行の法が何十倍も苦しかった。
 熊が出てきて、懐かしさを覚え「たとえ仇敵悪人でも、人は神の子である。憎みあわず、助け合わなければならない。」と悟った。
名称
王仁三郎* 巨熊
生魂
現界 神界 高熊山
 
本文    文字数=3903

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第三章 現界の苦行〔三〕

 高熊山の修行は一時間神界の修行を命せられると、現界は二時間の比例で修行をさせられた。しかし二時間の現界の修行より、一時間の神界の修行の方が数十倍も苦かつた。現界の修行といつては寒天に襦袢一枚となつて、前後一週間水一杯飲まず、一食もせず、岩の上に静坐して無言でをつたことである。その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、夜中になつても狐狸の声も聞かず、虫の音も無く、ときどき山も崩れむばかりの怪音や、なんとも言へぬ厭らしい身の毛の震慄する怪声が耳朶を打つ。寂しいとも、恐ろしいとも、なんとも形容のできぬ光景であつた。……たとへ狐でも、狸でも、虎狼でもかまはぬ、生ある動物がでてきて生きた声を聞かして欲しい。その姿なりと、生物であつたら、一眼見たいものだと、憧憬れるやうになつた。アヽ生物ぐらゐ人の力になるものはない……と思つてゐると、かたはらの小篠の中からガサガサと足音をさして、黒い影の動物が、自分の静坐する、一尺ほど前までやつてきた。夜眼には、確にそれと分りかねるが、非常に大きな熊のやうであつた。
 この山の主は巨大な熊であるといふことを、常に古老から聞かされてをつた。そして夜中に人を見つけたが最後、その巨熊が八裂きにして、松の枝に懸けてゆくといふことを聞いてゐた。自分は今夜こそこの巨熊に引裂かれて死ぬのかも知れないと、その瞬間に心臓の血を躍らした。
 ままよ何事も惟神に一任するに如かず……と、心を臍下丹田に落着けた。サアさうなると恐ろしいと思つた巨熊の姿が大変な力となり、その呻声が恋しく懐しくなつた。世界一切の生物に、仁慈の神の生魂が宿りたまふといふことが、適切に感じられたのである。
 かかる猛獣でさへも寂しいときには力になるものを、況んや万物の霊長たる人においてをやだ。アゝ世界の人々を悪んだり、怒らしたり、侮つたり、苦しめたり、人を何とも思はず、日々を暮してきた自分は、何とした勿体ない罰当りであつたのか、たとへ仇敵悪人といへども、皆神様の霊が宿つてゐる。人は神である。否人ばかりではない、一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である。
 人はどうしても一人で世に立つことはできぬものだ。四恩といふことを忘れては人の道が立たぬ。人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとへその心は鬼でも蛇でもかまはぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や、利害の打算上から、たがひに憎み嫉み争ふとは、何たる矛盾であらう、不真面目であらう。人間は神様である。人間をおいて力になつてくれる神様がどこにあるであらうか。
 神界には神様が第一の力であり、便りであるが、現界では人間こそ、吾等を助くる誠の生きたる尊い神様であると、かう心の底から考へてくると、人間が尊く有難くなつて、粗末に取扱ふことは、天地の神明にたいし奉り、恐れありといふことを強く悟了したのである。
 これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であつた。アゝ惟神霊幸倍坐世。


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