出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
本教創世記2003.11本教創世記10出口王仁三郎参照文献検索
キーワード: 宗教者へ 顕斎と幽斎 御岳教 多田琴
詳細情報:
〇顕斎は祭祀、幽斎は祈祷である。
〇幽斎では多田琴、石田小末などが口を切った。斎藤たか、岩森とく、上田幸吉などが参加。
〇明治31年4月3日稲荷講社の三ツ矢喜衛門が訪ねて来た。
〇正神の感合と邪神の感合の例があげられている。
〇石田小末に、神功皇后の軍に従って三韓征伐に参加した武士の神霊、小松林が懸かり、王仁三郎に名前を10年間使うことを許す。
備考: 著作集(1) P.118 本教創世記第10章
 
本文    文字数=9755

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 神界に感合するの道は、至尊至貴にして、神秘に属し、濫(みだ)りに語るべきものではないのである。吾が朝延の古典、就中(なかんずく)『古事記』『日本書紀』等に、往々其の実蹟を載せあるといえども、中つ御代に仏教が到来してから、我が国粋たる祭祀の大道なるものが追々に衰えて来て、共の実を失える事、既
に久しき事があったが、天運循環して、神伝により、其の古代の法術に復帰するの機運が出て来たのである。是れ即ち玄理の窮極であって、皇祖の以て皇孫に伝え給える治国の大本であって、祭祀の蘊奥である。蓋(けだ)し幽斎の法なるものは、至厳至重なる術であるから、深く戒慎し、其人に非ざればみだりに行うべからざるものがある。濫(みだ)りに伝授すべからざるの意は、茲(ここ)に存する次第である。然りと難も、其の精神にして、千艱万難に撓む事なくして、自ら彊(や)めて止まざるに於ては、竟(つい)に能く神人感合の妙境に達する事を得らるるに到る者もある。後の此伝を受けんとする行者は、右の理由を宜く諒察せねばならぬのである。幽冥に通ずるの道は、唯其の専修するにあるのであるが、茲に其の法を示さんと思う。
一、身体衣服を清潔にする事。
二、幽すいの地、閑静の家を撰ぶ事。
三、身躰を整え、瞑目静座する事。
四、一切の妄想を除去する事。
五、感覚を蕩尽して、意念を断滅する事。
六、心神を澄清にして、感触の為めに擾(みだ)れざるを務む可き事。
七、一意専心に、吾霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念すべき事。
右の七章は、自修の要件を明示せしものであるが、凡て幽斎の研究なるものは、世務を棄却して、
以て大死一番の境に至らねば、妙域に到達する事は出来ないのである。
 幽斎の法は、至貴至厳なる神術であって、宇宙の主宰に感合し、親しく八百万の神に接するの道である。故に幽斎を修し得らるるに至っては、至大無外、至小無内、無遠近、無大小、無広狭、無明暗、過去と現在と未来とを間わず、一つも通ぜざるはないのである。是れ即ち惟神の妙法である。修行者たるものは、常に服ようし置くべき者があるから、茲に其概略を挙げて置く次第である。
一、霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自ら之を尊重し、妖魅なぞの為めに誑かさるる事勿(なか)れ。
二、正邪理非の分別を明にすべし。
三、常に神典を誦読し、神徳を記憶すべし。
四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。
五、正神に百八十一の階級あり。妖魅又之に同じ。
六、精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なれば乃ち邪神に感合すべし。吾精神の正邪と賢愚ただちは、直に幽冥に応ず。最も戒慎すべし。
七、正神界と邪神界とは、正邪の別、尊卑の差あり。其異なる、又天淵の遠あるを知るべし。以上は、只其概(あらまし)を掲ぐると難も、幽冥の事たるや深遠霊妙にして、其の至る所は、之を言詞の尽す能わざるものがある。只、其の人の修行の上に存するものである。
帰神の事に就て古典を調べて見るに、『古事記』には「天の岩戸」の段に至って、「神懸り」又「帰神」と現わしてある。又『日本書紀』には、「帰神」とのみ現わして「神懸り」とは無いが、何れも神人感合の事実を誌しされたので、意味に於ては同一である。
 此の帰神に最も重要なるものは審神者(さにわ)の役である。其人にあらざれば、即ち能わざるものである。其注意周到にして、胆力あり学識ありて理非を明かにするに速かなるを要する術である。左の八章は審神者の覚悟すべき事であって、最も重要なるものである。
審神者の覚悟
一、過去、現在、未来を伺うべし。
二、実神なるや、偽神なるや、弁ぜずばあるべからず。
三、神の上、中、下の品位を知らずばあるべからず。
四、神の功業を知らずばあるべからず。
五、荒魂、和魂、幸魂、奇魂を知らずばあるべからず。
六、天神、地祇の分別なかるべからず。
七、神に三等あるを知らずばあるべからず。八、神に公憑、私憑あるを知らずばあるべからず。
合せて八種の覚悟。
 審神者の事に就て古典を調ぶるに、『古事記』には「沙庭」と現われ、又『日本書紀』には「審神者」と現わして在るが、要するに、審神者なる役は神感を審判するものであって、「沙庭」も「審神者」も、其意味に於ては同一である。
 幽斎の修行には、少々修行場の装置を整えねばならぬ。閑静なる家や幽すいなる地を撰ぶべきは前述の通りで有るが、第一、「審神者台」という器具と、「帰神台」という器具が、是非共必要である。又此の台は、審神者なり神主の坐して修行する所の清所であるから、最も清潔を要するのである。又両種の台とも、檜木を以て造るのである。三尺四方の台にして、高さは五寸なければならぬのである。
 此の台の上面に荒ムシロを敷いて、身心を清めたる審神者なり神主が、静坐瞑目して神人の感合を祈る至清所なのである。神主というは、幽斎修行者の別称である。以下之に倣う。其れから審神者に必携すべき神器がある。それは「鎮魂の玉」と「天の岩笛」の二品である。「鎮魂の玉」は前章に記したる通りであるから、敢て説明の要はないから、「天の岩笛」に付て一言述ぶる必要がある。
抑々(そもそも)「天の岩笛」なるものは、一に「天然笛」と云い、又「石笛」とも称えて、神代の楽器である。天然の石に自然穴のあいたもので、之れに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる声音を発するものである。穴の全く貫通したのは最も上等であるが、半通のものでも用いられるものである。又、此を吹奏するには、余程鍛練を要するものである。吹き様によりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて、耳に立って喧(やか)ましい。むやみに「ピューピュー」と吹くのはよくないのである。極めて耳に穏かに対(こた)えて、何となく優美な音色を発せしむるのは最もよろしいのである。「ユーユー」と、長く跡の音を引いて、「幽」と云う音色を発生せしめるのが第一等である。神人感合の道は至善至重なる術であるから、審神者も神主も最も厳粛の態度を持して掛らなければ、宇宙の主宰に感合し、亦た八百万神に親近するの道であるから、神界へ対して不敬を加える恐れがあるから、最も注意周到で無くては成らないのである。
 此の天然笛を吹奏するの術は、神主の霊魂と宇宙の正霊と互に感合するの媒介と成る可き、極めて貴重なる方法であるから、無意味に吹いたり、又狩人が鹿を呼ぶ様な吹き方をしては、神界の怒り触るるのみでなく、妖魅の襲来を招くの恐があるのである。神主には清浄なる白衣を着せしめ、下部は赤か紫の木綿袴を穿(うが)たしめて、婦人なれば総髪に仕て置くが便利である。
 幽斎修行に最も適当なる気候は春秋である。夏は蚊蝿が沢山な上に汗が流れるので、余程修行の妨害となるなり。冬は寒気の為に自由の行動が取れず、且又、山中なぞは積雪の為めに其目的を達する
に於て万事の障害と成る者である。
 神主の適齢は、女子にて十二、三歳から十五歳位までが最も上等である。其の上の年齢になると修行の結果が面白くない者である。凡て婦人の神主は、老人程結果が面白くない。総て婦人は精神狭量にして無智者が多いから、婦女なれば十二、三歳に限るというても宜(よ)い位なものである。亦男子の神主は十五、六歳が適当齢で、夫(そ)れから三十歳まで位である。男子は余程感じ難き傾向があるから、男子の神主は、余程審神者に於て苦辛するのである。第一に、男子は智識あり、学力あり、胆力あるもので、徳義心の篤き者で無いと、正しき神主と成る事は出来難い。亦宜しき神主に成る性質の者は、余程英敏であって、何所(どこ)となく凡人に勝れた所の在る者で無いと、完備した神主には成り難い者である。感合する事は、三週間か四、五週間の修行で感ずるが、すっかり、邪神界の神主に成り果る者であるから、濫(みだ)りに幽斎は人に伝授すべからざるの術である。