出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
神霊界 国教樹立に就て 参照文献検索
キーワード: 国教論 信教の自由 崇神天皇 和光同塵 大正維新 造化三神 言霊学 古事記 高天原 天照大御神 政教一致 木村鷹太郎 命と尊 人間平等観
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王仁文庫収録の『国教樹立論』では(1)~(3) 神霊界では(1)~(4)
〇皇道=大本教
〇崇神天皇の時代に和光同塵の政策を取り入れ、世界の文物を取り入れたが、それ以後幾多の文明が変遷したが、自由発展の結末が、却って惨劇を世上に繁からしめ、不安騒乱の大修羅場を現出し、弱肉強食の堕落境に沈綸するに至った。
〇現代の思想界は封建割拠のありさまである。宗教は、信者を私領して一大豪族のありさまを呈している。明治維新は、700年間の武家政治を打破して王政に復古したのであったが、大正維新は思想界の上に王政復古を成就するものである。
〇現代(書かれた時点)は、国民の緊張したる思想が内に溢れて、外は暗澹たる支那およびロシアに国体上の問題がある。欧州の各国は悉く矛を取って立ち全世界は修羅の巷と化している有様だ。かような列国の有様が、どのように終局を迎えるか疑問であるが、我国民が一大飛躍をとげる時が来たことを深く信じて、この千載一遇の好機をのがしてはならない。
〇バビロン王、ネブカトネザルの予言
〇崇神天皇の夢物語の予言
〇古事記には哲学的方面の解釈と、倫理的方面、宗教的方面の解釈がある。
〇高御産巣日神は神漏岐系の祖神にして、天御中主神の精神系である。しかして神産巣日神は神漏美系の祖神にして、天御中主神の物質系である。精神と物質は天御中主神の両面である。
〇神はコトバである。コトバは神の意志である。日本においては、神の御名に何々の命(尊)とあるのは、御言(みこと)の義である。コトバは霊であるという見地からして、日本には言霊という語が昔から存在して在るのである。
〇祭祀正道が根本を失って、天上の儀が地上に殆ど跡を絶つようになって天下が乱れた。
〇木村鷹太郎の「日本古代史」について。
〇神漏岐神漏美の無始本来の当時より、一系綿々たる君臣、上下の差別がある。宇内の君権は、決して何者の野望をも許さないのである。高天原の教権は、唯我一人の相承である。大日本皇帝以外に何者も教権の権威を保つべきものはない。神は一面に平等の愛である。同時にまた他面には、差別の威力である。差別は本末を分かち、正邪を分かち、治者と被治者を分かち、カアマ尊厳の信賞必罰である。〇カアマ金剛座は、血脈伝統の儀相である。万有万姓万類は、悉く血脈の伝統を得て、皆それぞれに発生し、生育し、活動するのである。みじんの末といえども、伝統系脈のないものは無い。いわんや万物の霊長たる人間の上においてや。高天原は、血脈伝統の大系統界である。複雑無限の発作発動も、一つとして伝統継述の意義を脱するものはない。これを平等観の上より見れば、一味平等の神事である。仏教やヤソ教の中には、悪平等観に陥る場合がある。平等は差別を俟て、意義を有するのである。しかして、その差別は、血脈本来から、天爾に発生するところの約束である。分限である。神約である。この神誓神約を犯すことが、根本の罪悪である。
備考: 57号 2巻 P.139
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国教樹立に就て
天爵道人
  一
 皇道即ち大本教は、天地初発の時より大日本国に因縁し、肇国の本来より先天的に密合して離るる事の出来ない、根本の大教義であります。然るに我神国日本の歴史的事実が、「帝国憲法」の明文に示されたるが如く、信教の自由たらしめられたのは何故であろうか。之を簡単に謂うならば、我神国は天壌無窮に皇運の弥栄えに栄えます御国柄でありますから、二千年や三千年間の歴史的事実を見て、以て確固不変の論拠と為すのは、大なる誤謬で在ろうと思うので在ります。天壌無窮と謂す事は、将来の無窮を言うのは勿論であるが、無終は無始に対応して起るべき事実であって、無始の因無くては無終の果ては無いのであります。我神国は無始無終の大基礎の上に建国の本義を樹立する国体であって、僅に二千歳や三千歳の短かき歴史を以って論断すべき国柄では無いのであります。夏の虫は雪を知らずに、世の中は永遠無窮に熱いものと思って居るのと同じ如うに、『日本書紀』に「天祖降跡たまいて自り以逮、于今一百七十九万二千四百七十余歳を経たり」と載せて在る事すら、現今の学者は説明に窮して、半ば懐疑的の眼を以て見て居るという有様である。こんな事で到底、日本神国の宏遠なる意義を語る事は最も不可能であると云わねば成らぬ。日本神国の真実義を聴かんとするものは、天壌無窮の立脚地に立つ丈けの資格の有る者で無ければ成らない。皇宗崇神天皇以後二千歳の寛容的和光同塵の時代は、日本国教の寛容時代であって、国家本来の偉大なる包容性を示された、事実的立証と成る迄の事であります。

  二
 この寛容時代は、太古、国祖国常立尊が艮へ退隠遊ばされたる時に創まる所であって、世界未製品時代の趨勢として、万止むを得ざる次第で在ったのであります。降而、人皇十代、崇神天皇の御宇に至って、弥々「三種の神器」の大権威を深く韜蔵遊ばされ、広く世界の文物に自由自在の発展を為さしめ、幾多の文明を変遷せしめて、漸次に極東日本の神州に其文明の一切を輸入せしめられたので有りますが、従来、幾多の文明も一として最後の平和を樹立するの由無く、自由発展の結末が却て惨劇を世上に繁からしめ、不安劇烈の大修羅場を現出し、弱肉強食の堕落にまで到達して、人間悉く痛苦を病む現代に当って、退隠遊ばされし国祖を出現せしめ給い、且つ二千歳の間、深く韜蔵せられたる「三種神器」の発動を促し給い、天地神明の稜威八紘に充ちて、勿ち松の世の春光の熈々乎として来るの感あらしめん、皇祖の御聖慮に出でさせ給うたのであります。

  三
 斯く謂えば、何故に斯様な御神慮に出させ給うたかを疑う者もあるで在ろうが、是全く天運循環の自然の神律に循い給うたもので、開祖の『御神諭』の御明文の如く、「時節には神も叶わんから、神は時節を待って、世の立替立直しを致すぞよ。もう何彼の時節が参りたから、昔の元の先祖の経綸通りに致して、天下泰平に世を治めて、昔の神代に捻じ直し、松の代、ミロクの代と致すぞよ。今迄は態とに暗雲の世に致して、万古末代の経綸を致して在りたぞよ、云々」。
 右の『御神諭』を伺い奉るも、永遠に転回し往く必然の順運を察し給いての、深甚なる御神慮に出させ給いし、難有き御聖慮であったので、其絶大なる御経綸は、人心小智の窺知し得ざる、幽玄なる真理の存する所であります。『古事記』の明文に日く、
「此天皇之御世に疫病多に起りて人民死せ尽きなんとす。爾天皇愁歎而、神床に坐すの夜、大物主大神、御夢に顕れて曰く、『是者我之御心なり。故れ意富多多泥古を以て、我御前を祭ら令めたまわば、神の気起らず、国安く平ぎなん』」
 と。是ぞ、世界大救済の神策を獲給うの御垂示であります。こは稍神秘的の様で在れども、此意義は、今に明白に分る日が来る事と確信するのであります。「天に風雲の障りあり。地に変動の妨げあり。人に疾病の煩いあり」と謂う事が古人の言に在るが、現今の人々は皆悉く霊肉共に重患に罹って居るのであります。肝腎の精神に本来の真光が失せて了って、思想が悉く病的である。身体も霊魂も共に重病に犯されて居るのが、現代の世界一般の人々の有様であります。一時も早く、片時も速かに『大本神諭』を喚起して、速に神宮を金輪際に遷座し、神祇を祭祀して、天下の疫気を悉く終息せしめ、国家安平の実を挙ぐる神事に努力せなければ成らぬ時運が、迫って来たのである。

  四
 皇道の大本は、長年月の和光同塵時代を直過して、「帝国憲法」までが信教の自由を標榜する迄に到ったけれども、之を広義に見れば毫末も其領域を犯かされたのでは無い。通俗的に考えて見ても、儒、仏、耶の伝来等の大なる思想、並に形式の伝来があったけれ共、日本の根本思想が比較的之に浸潤せず、極めて円滑に是等を消化し、日本化して了った所の、其消化力の偉大なる事、而して其本来の精神の、渾然として何物にも犯されず、常に他を化して自家の薬籠中のものたらしめたるは、全く国祖の隠護されたる結果にして、日本固有の大精神が金剛の威力を有し、神聖不可犯の権威と、而して大寛容性の中にも他に同化せられずして、悉く他を類化し、以って来るものをして、恰も本来の在所に帰着せしめたるが如き感在らしむるは、実に大したものでは無いか。思想の大宗家として、乃至は一切万有の本家、本元として、何物にも本来の居据り良い心持を与え、主君や親の膝下に到来するの情を起さしむるは、誰が考えても一種の驚歎を感ぜずには居られない。斯う言う一般史実的方面からだけ見ても、日本の根本教義を捜って見たい感を、何人にも与える次第である。日本の国体を論ずるものの説は、此点の詮鑿が根基となって、古記録の研鑚を積み、而して成立したものであるが、吾人の要求は、もう一段と深い所まで研究を為て貰いたいのである。

神霊界 1918/03/01 国教樹立に就て 57号 2巻