出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
ユダヤの救世主が日本に現われる1992.09.30矢野裕太郎中矢伸一参照文献検索
キーワード: 大本裏神業
 
本文    文字数=2938

 矢野は日本海海戦では旗艦三笠に乗り組んで参戦した海軍軍人であった。
 また、技術者としても優秀で、砲弾の信管の改良に功績をあげ、櫓式マストの考案、砲身用の新合金の試作、ボタン一つで全艦載砲を自在に操作する電動装置の開発など、英米に比べて劣勢だった日本艦艇の戦闘能力の強化に貢献し、勲三等に叙せられている。
 大正七年より海軍大学校で教官を務め、翌八年には海軍大佐に昇進した経歴を持つ、いわばエリート軍人であった。
 しかし、自ら霊媒的素質もあった彼は、神霊の世界にも興味を持ち、「大本」と接するようになり、出口王仁三郎とも深い親交を持つに至つた。
 大正十一年、少将に昇進する予定を辞退して予備役を志願し、現役を退くと、神霊界や皇道思想の研究に没頭するようになる。
 大正十三年には王仁三郎のいわゆる「入蒙」を裏で画策し、奉天の軍閥・盧占魁や、関東軍特務機関との間を取り持つなど、大本の神業にも尽力したが、その後は王仁三郎と対立して大本を去り、独自の道を歩み始める。
 矢野は、大本の「お筆先」である『大本神諭』を自ら読み解く一方、出ロナオ(大本の開祖)の三女・福島ヒサに降りていた「お筆先」である『日乃出神諭』や、大本の肝川(兵庫県川辺郡肝川)支部で独自に行なわれていた神憑かり神業による啓示『由来記』を研究した。
 さらに、皇祖皇太神宮の「天津教」に接近したが、『竹内文書』から得た天皇史観は、強烈な影響を与えたようである。彼はこうした文献や神示類をべースに、大本で培った「立替え・立直し」論を加えて自説を構築し、その経綸を成就させるべく「神政龍神会」を結成、賛同者を集めて活動を行なった。
 実際に共鳴し、彼と活動を共にした者は数十人だったようだが、その中には宮中関係者や国会議員、現職軍人など有力人士が含まれていたため、昭和十一年には当局の手入れを受け、矢野本人は不敬罪容疑で逮捕投獄、昭和十三年、裁判中に拘置所内で急死した。死因は毒殺だったと言われる。
 こうした矢野の、文字通り命を賭けた研究の結実とも言えるのが、彼の遺稿となった『神霊正典』である。
 『神霊正典』には、宇宙剖判から人類創造、皇室の発祥とその歴史、これから起こる神霊界及び現界の立替え立直し、そして“みろくの世”出現に至るまでが、紀伝体で順を追って詳しく解説されている。