出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
ユダヤの救世主が日本に現われる1992.09.30河内正臣氏の天皇論中矢伸一参照文献検索
キーワード: 天皇論
 
本文    文字数=4151

「開戦の詔書に『まことに已むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや』と御自ら書き加えられたことが示すように、前陛下(昭和天皇)は最初からまったく戦争する気はなかった。それでも開戦を赦されたのは、それが当時の全国民の総意であり、これを拒否することは“独裁者”となることを意味し、立憲君主の立場としては絶対出来得ないことであった。
 前陛下のこの御態度は、昭和十一年に発生した二・二六事件を、御自身の決断によって収拾された時、若手将校が処刑されるなどの重苦しい体験から胸中深く刻み込まれた教訓であったという。
 だが、最終決定を下し、その承認によって戦争が開始された以上、その全責任は自分にあるとのお覚悟から、前陛下は敗戦という史上未曾有の苦難を誰よりも最も苦しまれ、誰よりも最も悲しまれ、そのご心痛とご心労は、言葉に絶するものがあった。
 そして一命を捨て切るお覚悟で終戦を御決断下さった前陛下は、爾来四十四年間、一人の国民も責められず、一言の弁明もなさらず、崇高なる道徳的見地に立たれ、戦争責任を自覚し続けられ、そのまま崩御されたのである」(河内氏論文『真実のメシアに目覚めよ!』)
 河内氏によれば、昭和天皇は、東条首相の意思や軍部の圧力に屈して戦争を始めたわけではなく、国民全体の意思の決定を尊重して、これを自らの意思としたのだという。
 こう考えると、最初から戦争をする気のまったくなかった昭和天皇を開戦に追い込み、詔書に署名させた「責任」は、むしろ日本国民の側にあったのではないか、ということになる。
「当時の世情は、対日禁輸ABCD包囲網などにより、無資源国・日本の自滅は必至であり、戦争に訴える以外に打開の道はないという事態に追い込まれていた。そのため国民の側が開戦は止むを得ないと信じており、その全国民の意思を、故陛下が代表されたということである。
 いかにその時代の軍部やマスコミの扇動があったとしても、それに圧倒的多数の国民が同調したという、この紛れもない事実にこそ前陛下の開戦の真の原因があり、そこに国民も、人間として本来あるべき道徳的見地に立てば、前陛下に対しての戦争の道義的責任を自覚しなければならない理由が厳然として存在しているのである」(右同)
 この辺りの事情は、いわゆる『昭和天皇独白録』(「文藝春秋」平成二年十二月号)において、天皇自らが語っていることからもわかる。
「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない」
「私が若し開戦の決定に対して“ベトー(拒否権の行使)”をしたとしよう。国内は必ず大混乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても、結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであらうと思ふ」
 こうしたことからも、天皇に開戦の詔書を書かせようという動きが、如何に強いものであったかが察せられる。また、天皇が戦争をする気がまったくなかったことや、開戦後も出来るだけ早い終結を望んでいたことは、開戦当時、侍従職にあった木下道雄氏の『宮中見聞録』にも詳しく書かれている。