出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
ユダヤの救世主が日本に現われる1992.09.30盤古大神中矢伸一参照文献検索
キーワード: 国祖退隠神話
 
本文    文字数=5539

(Web管理者注 この話はわかりやすい。本当に王仁三郎がこう言っているか、確認する必要がある。【】[]はWeb管理者)
 王仁三郎の皇国史観により日本建国の謎に迫る時、必ず頭に入れなくてはならないのは、「体主霊従」主義を振りかざす悪神の総大将、盤古大神の存在である。
 盤古大神は、中国北方に天降り、そこを拠点に各地に勢力を拡げていく。そしてその勢力は、やがて日本にまで及ぶようになる。
 王仁三郎の没後、大本教から分かれて『皇道赤心会』を結成した泉田瑞顕氏は、その著書『出口王仁三郎の大警告』の中で、
「昔の中国北東地域に存在したと言われる扶余族が、勢力を拡大して高句麗を建国し、その一派が朝鮮半島を南下して百済を建国した。その後さらに南進して狗邪韓国(加羅国)をつくり、その部族集団が天孫族と称して日本へ侵入して来た」
という説を展開している。同氏によれば、この扶余族が中国北方に定着して北扶余国を建国したのが扶余王国の始まりとされているが、この扶余族こそ、ユダヤの「失われた十部族」ではなかったかという。
 東扶余を建国した王の名を解夫婁というのも、“ヘブライ人(英語ではHebrew)の意味から来ている可能性が高い。そして扶余族の奉じていた神とは、盤古大神であったと同氏は推測している。
 確かに、盤古大神が太陽神界から天降った神だとすれば、「日の大神系」であり、これが天照大神にすり替わったと考えられないこともない。
 王仁三郎の説に従えば、日の大神・天照大神こそ我らの祖神と称する天孫族が、もともと素盞鳴尊(須佐之男命)の子孫である大国主が天下泰平に治めていた葦原中津国(日本)に、武力をもって侵入して来た。
 その首領が、天孫族を自称する邇邇芸命であり、その子孫にあたるのが、大和に武力侵攻を行なって王朝を築く神武天皇であった。従って、神武天皇を初代とする現在の天皇家は、紛れもなく悪神・盤古大神の末裔ということになる。
『記紀』以外の説を唱えるものは悉く弾圧された戦前において、このような王仁三郎の主張は到底受け入れられるはずがなかった。
----ここから中谷説----
 だが、神武天皇が九州から東征し、大和に武力をもって侵入して来たことは、確かに『記紀』自らが認めるところである。また、神武天皇が来る以前に、大和には饒速日命という神が王朝を築き、統治していたことが『記紀』にも記されている。
『日本書紀』などによれば、饒速日命は天照大神と須佐之男命のウケヒ(神にかけて誓うこと)により生まれた天忍穂耳命の子とされ、天孫・邇邇芸命の兄にあたる。この饒速日命が天照大神から「十種の神宝」を奉じ、三二神を従え、天磐船に乗って、河内の国に天降ったと伝えられている。つまり、邇邇芸命とはまた別に、天孫降臨があったことになる。
 この時すでに大和地方は、土豪の長髄彦によって統治されており、饒速日命は長髄彦の妹である御炊屋姫を妻に娶り、長髄彦一族の長として共に大和を治めることになったという。
 ということは、正統な天孫族とは、饒速日命であったとも言えるのである。その証として、饒速日命は天照大神より「十種の神宝」を与えられていた。現在でも皇位継承の証として「三種の神器」と言われる鏡、剣、勾玉が存在することは知られているが、実は当時の豪族たちは、王権のシンボルとして、このようなものは皆持っていたのである。
(十種の神宝と三種の神器については機会をあらためて詳述)
 出雲の国譲り神話にしても、大国主命は、武力を背景に交渉に臨んだ邇邇芸命の使者・建御雷命に対し、国を明け渡してしまう。

 王仁三郎の説によれば、正統な日本国の、ひいては地上現界の統治者は、「国津神」である素盞鳴尊であり、その子孫、大国主命であり、また正統なる天孫族である饒速日命である。
 一方の自称「天津神」とは、天照大神を祖神とする天孫族ではなくして、盤古大神を奉ずる「われ善し」主義の侵略者だという。
 前出の泉田氏は、この王仁三郎説を踏襲し、
「彼ら(天皇家)の最大の罪悪は、国家祭祀と国史において、世の元の大元神たる国祖大神(国常立大神)を抹殺し、地上経綸の主宰神たる神素盞鳴尊を悪神として追放したことである。そうして悪神の頭領たる盤古大神を天照大神と偽称して国家祭祀の中心においたことである。そのため日本国土の神霊界が八岐大蛇や金毛九尾に占領され、動物霊の跋扈する悪魔の国となったのである」
と口を極めている。