出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
本教創世記2003.11本教創世記12出口王仁三郎参照文献検索
キーワード: 宗教者へ 鎮魂帰神 審神者 神通眼
詳細情報:
〇幽斎修行の例 悪霊、妖魅が懸かった例があげられている。自ら大神とか名乗るのは妖魅である。家屋などを振動させ、審神者や信者を驚かせる。
〇神通眼 王仁三郎が神主(修行者)に直霊を賦与して、遠くのもの、隠れたものを見せることができる。
〇角力取りの八田弥三郎に襲われるが、柔道で投げて逃げた。八田は神罰を得て一年後に帰幽した。(この部分は、後の聖師伝とは違っている)
備考: 著作集(1) P.149 本教創世記第12章
 
本文    文字数=5804

「伊邪那岐命日く、『天照大神は高天原を知食(しろしめ)すべし』と詔り玉いて、御首玉の母由良(もゆら)に取り由良かして、天照大御神に賜いき。云々」とある。是即ち、其霊魂を付着して、現天の主宰たらしめん事を神定めたまうたものである。而して、此玉を天照大御神より皇祖ニニ岐(ににぎ)命へ御授けに成ったのである。其時の事実の『古事記』に見えて、「男喜志玉、男喜志鏡、剣」とある。此の三種の神宝を、帝位知食す御印しとして下し玉うて、以来御代々の帝王は申すも更なり、その大御心を心として万民悉く尊奉崇敬して怠らざりし故に、神の神たる所以の理由よりして、万般の利益や霊現を蒙りし事、国吏に照々として、日月と共に其の光りを争うと云うても、決して余の誣言でない事は知れてくるのである。
 而(しか)して今や一章の引証すべき者が無いから、只其の『令義解』たる古典に記載し有る全文を是に出して、只其招魂の作法を伝授せんと思いて、記載し置く次第である。此鎮魂法は天授の神法であるから、上は天皇の治国平天下の御事よりして、下は人民修身斉家の基本、つづいて無形の神界を探知するの基礎であるから、宜しく之を懐中に秘して、事業の閑暇には謹んで之を省み、之を行い、霊魂の運転活動を学習するに於ては、遂に熟達し得らるる事を得るに至るのであるが、十分清浄なる精神で以て修業した所で、相当の教育のある者で五年、或は十年は、日子を費さねばならぬのである。
 余は今、奉道者の為めに鎮魂の由来なり、功蹟に付て述べて置く必要があるから、概略を掲げる事にしたのである。
 鎮魂の法は、霊学の大本とも云うべきものであるから、その原因する所を論定し、其末法をを講明せて、益々天に代るの大功を干万世に建てんとするの目的であるが、是万物の霊長たる所の人類の義務であって、余が天より命ぜられたる使命の大主眼たるものである。『令の義解』にも、鎮魂の事が其の如くに云うて有る。「鎮は安なり。人の陽気を魂という。離遊の運魂を招き、身体の中府に止む。故に之を鎮魂と云う」と記載しあるを見ても、心を一にするという事がわかるのである。
 鎮魂に要する玉は、純黒にして正円なるを最もよしとするのである。重量は、七匁位から十匁位のその間のものが一等である。三宝の上に其の玉を安置して、修行者は、瞑目静座、一心不乱に其玉に向って吾霊魂を集中するのである。恰(あたか)も蛇が蛙に魅入れるが如く、猫が鼠をねろう如くに、一切の妄想なり感覚を蕩尽して修するのである。
 吾国には、かかる貴重なる経典と法術とが有るにも拘らず、物質的文明に心酔せる吾邦人は、実に蒙昧頑固であるから、国家の重典や神法を顧みる者がなくて、法を外国の教えに求め、実を異邦の道に尋ねて、釈迦や孔子や基督や其他聖賢と唱らるる人物を崇拝して、天授の神法を度外視する習慣が常となり、汚穢日に加わり、国家の為めに実に悲しむべき事である。
 幽斎の法は、霊を以て霊に対するのであるから、神像も有る無く宮舎も有る無く、てん幣も有る無く、祭文も有る無く、唯吾が霊魂を以て宇宙の霊魂に対すれば宜(よ)いのである。要は真神を祈るの道で有る。
 顕斎は、形を以て形に対するの法式であるから、神像も有り、宮殿も有り、へい幣も有り、祭文も有って、像神を祭るの道である。
 顕斎は祭祀の道であって、神明に対し奉りて其洪大無辺なる恩徳を奉謝するの儀式である。
 幽斎は祈祷の道でありて、神明に対し奉りて、公正なる願望を成就せしめ玉わん事を祈り、又神術の進歩発達して神人感合の妙域に到達せん事を祈るの大道で、真理蘊奥、万業の基礎たる可き神
幽斎式は、前記の如く、霊を以て霊に対するのであるから、顕斎は不必要かと云えば、決して不必要では無い。幽斎にして顕斎ならざるも非なり。顕斎にして幽斎ならざるも亦非なり。一方ゆえにのみ偏するは必ずしも真理では無いのである。故に余は、幽斎の修行を開始するに当りて、先ず神殿を作り、幣束を安置し、祭文を奉唱して、修業する事にしたのである。
 彼の祭祀と祈祷との大義を誤解し、混同して、以て偶像教なぞと誹毀する某教の教理の如きは、実に偏見極まる邪説である。亦た御岳教敬神教会、ひもろぎ教会の徒の如く、「神降」と称して神憑を祈るに際し、幣帛を捧げたり、大音で祭文を称えながら幽斎を修するのは大不都合といわねばならぬ。先ず顕斎式を了して、而して後に悠然として幽斎式に着手すべきものである。現時の神学者及宗教家たるものは、頑迷にして、祭祀と祈祷の厳然たる区別を弁えず、日夜神怒に触るる事のみに熱中しつつ、平然として宗教者、神学者を以て自ら任じつつあるは、実に憐むべきの到りである。