出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
ユダヤは日本に何をしたか2003.02大本教をめぐる人々渡辺悌治参照文献検索
キーワード: マツソン 北一輝 日猶同祖論 出口京太郎 松本寅彦
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大本教をめぐる人々

 大本教の系譜というのは、出口王仁三郎が真の日本国の統治者であるということを証するものとして偽作させたものであった。現天皇は天照大神の系統であって高天原の統治者であり、現世は須佐之男命の子孫である出口王仁三郎が統治するのが筋だとしたものであった。
 出口家の養子になった喜三郎は、喜を鬼として鬼三郎とし、さらにキサブロウをオニサブロウと呼ばせ、オニに王仁という字をあてて王仁三郎とし、現世の統治者キミヒトと呼ばせ、皇位にある者の呼び名としたのであった。彼はキミヒトを自称したのである。スサノオノミコトの直系たる出口キミヒトだとする作為になるもので、白馬に跨がり、自らをキミヒト様と呼ばせていた出口喜三郎の夢想によるものであった。
 出口王仁三郎が、ある雨の日の午後、綾部の本部の庭園を北一輝と肩を並べて散策していたが、そのときの話は、北の改造法案の出版費についてであったという。北が大本教から資金を引き出していたともいわれていた理由がここにもあった。
 なお、北・大川・満川の三人が、出口王仁三郎を訪ねたときの模様を、東京・目黒の吉田庄七《よしだしようひち》老人に聞いたことだが、大川は肩を怒らせて出口を睨みつけ、北は大げさな身振りで恭しく三拝の礼をとっていたという。
 出口王仁三郎と言わずに、「王仁」である出口喜三郎の思いあがりに危惧の念をいだいた浅野和三郎が、思いあまって吉田庄七老人に、その処置について相談に来たのだという。それで吉田老人が警視庁関係と相談し、大本教に司直の手が入ったというのである。 出口京太郎《でぐちきようたろう》君が、昭和四十年代に出口王仁三郎についての著述を出版した折、一読したところ、王仁三郎が何で検挙されたか理由がわからぬと書いていたので、私が郷里の日刊紙『庄内日報』にその理由について記したことがあるからと手紙で知らせておいたところ、そのとおりにする旨の返書をもらったことがあった。京太郎君は今どうしていることか。
 大本教に関する書籍は無数にある。ここでは、日本とユダヤとの先祖は同じだという趣旨の日猶同祖論と大本教との結びつきにだけふれておく。
 大本教に日猶同祖論を結びつけていた人物の一人にアナーキストの松本寅彦がいた。松本は山口県人。明大を出て、無政府主義運動に身を投じ、後に右翼風に転向を装っていた。早くからユダヤ間題に関心を持ち、親ユダヤ運動の隠れたシンパサイザーとなり、内外の情報をそのルートから掴んでいた。
 大本教の出口王仁三郎と通じ、そこから資金を得て、親ユダヤ運動の仕掛人となり、日猶同祖論及び世界共和国連邦運動等を助成していた。しかし、大本教信徒の列には加わりながら、王仁三郎と特別の関係にあったことは、秘して語ろうとはしなかった。