出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 長生殿の建築池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 建築物
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本文    文字数=3979

問 「昭和十年九月頃、王仁三郎が伊佐男に、『愈々綾部本宮山の長生殿の建築に着手するから準備せよ』と云ふ話があつたので、其の頃光照殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高幹部会を開き、長生殿の建築事務は亀岡本部に於て取扱ふこと、其の建築費用は亀岡に建築する万祥殿の建築費用と合併して、両殿の建築費用を神殿造営献金名義で信者より献金せしめ、長生殿は大本の最高の宮であるから、信者全部から献金せしむることに協議決定しました。同年十月二十七日の秋季大祭に長生殿の斧始式を執行すると云ふことは、既に同年八月十日の弥勒殿に於ける信者大会の席上に於て王仁三郎が信者に予言してありましたので、右決議以来続々献金する者が出来て、神殿造営献金額は、昭和十年十二月迄二約七、八万円となり、万祥殿建築費の献金は右以外に約九万円決つて居りました。それで、長生殿の斧始式は予定通り十月二十七日二執行しました。王仁三郎は昭和三年三月三日頃から、『同日には王仁三郎がみろく菩薩として此の世に下生し、月宮殿が出来ればみろく如来となり、本宮山の御宮が出来たらみろくの神となるのである』と言うて居りました」と書いてあるが……。
答 それは、みろくの神になるなんて、そんなことは言うて居りまへぬ。
 それは聴き損ひです。
問 それから此の後はどうなんです、長生殿の建築の会議は。
答 それは会議は相談したに違ひありまへぬ。
 それで、金はなんぼ要つたかそれは私知りまへぬけれど、私は昔から四十年程神様に仕へて居りますけれども、金のことは一遍も扱つたことはないのです。皆役員に任してありますから──家の会計も役員さんがして呉れて居ります。
問 それから、昭和十年十月光照殿に於て伊佐男、高木、大深、東尾が大本の今後の活動方針に付て協議をして、是からは長生殿及び万祥殿の造営に主力を注ぎ、青年会及び坤生会も外廓運動を手控へて両殿の造営に力を注ぐこと。信者の期待する長生殿が出来るのであるから、此の機会に信者の信仰を向上せしむること。昭和神聖会の運動は中止するのではないが、内容充実に入つたものと心得させること。右方針を信者に徹底せしむる為、井上及び有留を東班とし、大深及び大谷を西班として各地方に派遣すること、信者獲得の為には支部の設置を簡易にせねばならぬから、信者十戸以上あれば支部の新設を許可し、支部の外に会合所を設けることとし、会合所は信者二、三人でも宜いこととし、是迄のやうに十人以下の支部はないことゝする代り、会合所を設置することゝ決定し、其の決定事項は十月二十七日の秋季大祭の時信者に発表して実行を奨励しました。以上の外、昭和六年頃以来は各大祭の前日に総務会議を開き、大祭に於て信者に報告する事項、信者を指令する事項等を協議決定しました。」
 さうですか、此の点は宜いかね。
答 はあ。
問 さうすると是等の点の……。
答 其の十月頃のことは、もう私、余り詳しう存じまへぬけれども、それで間違ひないと思ひます。何が言うとるのですから──東尾はんが言うとるのなら間違ひないと思ひます。
問 はつきり覚えて居らぬが、東尾が言うとるのなら間違ひはないと言ふのだね。
答 さうです。