出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 皇道大本と改称、出口王仁三郎全集池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 皇道大本 王仁三郎全集
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本文    文字数=4360

問 それから、「昭和八年一月、亀岡瑞声閣に伊佐男、高木、岩田、東尾が集合して最高幹部会を開き、伊佐男の提案した皇道大本の名称を使用する事、大本の組織の改革等に付協議し、近来世間に於て皇道熱が盛になつて来たから、是からは大正十年事件以来使用することを遠慮して居つた皇道大本なる名称に使用すること、是迄は瑞祥会があつて、同会と大本との関係が複雑になつて居るから、瑞祥会を廃止して大本に合流せしめ、是からは皇道大本に於て、大本に関する一切のことを統制すること。皇道大本の総本部を綾部に置き、本部を亀岡に置き、総本部に於ては祭祀と出口家の事務とを取扱ひ、其の他の大本の事は全部亀岡に於て取扱ふこと、と決定し、其の決定したる事項は王仁三郎の許可を得て、総務会議に提出し、大本信条は昔出来たままになつて居るから、信条を改正すると共に、大本規約を改正することゝし、前回御示しの大本事務便覧に掲載の信条及規約を制定し、それから、其の次は、昭和八年一月中旬頃光照殿に、伊佐男、井上、高木、岩田、栗原、有田、湯浅、西村、桜井同吉、松並高義、東尾等が集合して総務会議を開き、右皇道大本の名称使用、大本組織改革等に付協議し、最高幹部会に於ける議決の通り決定し、其の議決事項は同年二月上旬の節分祭に信者に対して発表して、其の頃議決の通り実行し、それから昭和九年一月東京の文士で大本信者の楠田敏郎が亀岡に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有社と云ふ書籍店を開業することゝなつたから、王仁三郎全集を万有社から発行させて貰ひたい、同全集を大本以外の普通の書籍店から発行して居ると云ふことは大本の宣伝上にも好都合であると思ふ故、是非発行させて呉れ』と言ひました。当時王仁三郎は伊豆の湯ケ島温泉に行つて居りましたので、同人の意見を聴くことゝ為し、楠田が伊豆に行つて王仁三郎と交渉し、王仁三郎が万有社から王仁三郎全集を発行することを承諾したので、全集発行に関する契約は東京に居る御田村に一任し愈々発行することゝなつたので、同年二、三月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、東尾が協議の上、元男を王仁三郎全集編纂委員長に、岩田を同編纂主任に、井上、高木、御田村、山口利隆、桜井重雄、吉野光俊、東尾を同編纂委員と定め、其の後委員等協議の上全集は合計八巻発行することとし、二巻分は霊界物語から、其の他は王仁三郎の著述した単行本全部及び王仁三郎の作つた原稿から材料を採ることゝし、王仁三郎の承認を経て、井上留五郎が其の材料を取調べて、訂正せねばならぬ所は王仁三郎の意見を聴いて訂正し、桜井重雄が主として材料を史実課より集め、私は王仁三郎の作歌中から作歌を選択して全集第七巻に掲載することゝしました……。
答 其処の所がちよつと違ひます。
 私がちよつとも訂正して居りまへぬ。其の儘を……
 先に書いてあつた通りです、訂正も何も致しまへぬ。
問 先に弁解して居つたね。
 それから、「同全集は第四巻迄は万有社より発行しましたが、同社は経営困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議の上、第五巻以下は天声社に於て発行することとし、其の後第五巻乃至第八巻を発行しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至第八巻は約三千部売れました」と、其の所で、「是は自分が取調べて委員会を作つて、訂正した時には違ふ」と斯う云ふのだね。
答 さうです、それはして居らぬと思ひます。