出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 新聞買収池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 新聞買収
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 宜しいか、それから、「昭和四年の十一月頃教主殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が会合して最高幹部会を開き、北国夕刊新聞を買収して大本に於て経営することを協議決定し、伊佐男と岩田とが買収の衝に当つて、其の頃同新聞を買収して大本に於て経営し、其の後同新聞には霊界物語中小説のやうな箇所を連載したことがあります。同新聞の経営は、王仁三郎が其の以前から大本の言論機関がなければならぬと言うて居つたので、買収して経営することにしたのであります」と、是も宜いか。
 それから、「昭和五年七月に教主殿に伊佐男、井上、高木、東尾が集つて同会議を開き協議の結果、大本の発展を図る為には大本の東京進出が必要であるから、其の前提として先づ大本の外廓団体である人類愛善会東洋本部を東京市へ進出せしめ、同時に人類愛善新聞社を東京市に移し、同新聞社は東京市に於て発行することゝ決めました。右会議には御田村及岩田は参加しませぬでしたが、それは両人は既に亀岡に於て、両人及伊佐男間に於て、右事項の協議済であつたからであります。此の東京進出は其の頃直ちに実行しました。それから、矢張り、昭和六年二月教主殿に伊佐男、井上、高木、東尾が会合して最高幹部会を開き、協議の末、開教四十周年記念事業として信者を五倍に、分所支部を三千に増加せしむる為、梅花運動を起し、其の第一期として一箇年間に支部の数を千五百個所とすること、其の事は、同年二月の節分祭に各信者に指令して之が実現を図ることと決定し、実行に移しました。其の結果、分所支部は千九百八十七個所となり、信者は当時の倍足らずになりました」と、宜しいか。
 それから、「昭和六年の十一月に矢張り同所に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高幹部会を開き、人類愛善新聞百万部突破に付て協議し、信者を激励して最初は三十万を目標に順次五十万、七十万に増加せしめて、百万部に達するやう努力せしむることゝ定め、同年秋の大祭に於て其の事を信者に発表しました。其の百万突破に付ては、王仁三郎が和歌を作つたこともあり、又王仁三郎が私等幹部に、『百万を突破せねばならぬ』と話したことがありますので、右決議をした次第であります。同決議の結果、各信者は同新聞の多数配布に努力し、各地方の支部等に於ては同新聞の一部売を為し、又本部より主会、聯合会等に対し同新聞配布の責任部数を割当て、実現に努力させました。それが為、昭和九年三月には目的の百万に達しましたが、其の後、又、順次に減少し、最後には三十万足らずになりました。」
答 私もそれを訊かれて居ります。
 私の調書にも書いてありまつしやろ。
問 だけれども、此の方が詳しいから……。
答 私のは好い加減に……。
問 簡単ですからね。
答 覚えて居りまへぬから、好い加減申しました。
問 それから上州時報……丹州時報か、此の点もあるのですがね。
 「昭和七年一月綾部穹天閣に於て高木、岩田、東尾が協議の上、丹州時報を買収して大本に於て経営することになりました。是は王仁三郎が高木に、『丹州時報は地元の新聞でもあるから買収して、大本に於て経営したい』と云ふ話があつたので、右協議をするに至つたものであります、該協議の結果、高木が買収の交渉をして二万円内外で同時報を大本に買収し、伊佐男が社長となり、後には吉野光俊も同時報の記者となり、同時報には大本の大祭の記事等を掲げて居りましたが、昭和十年一月頃に王仁三郎から注意があつたので、其の後からは同時報に大本の主張、昭和青年会の主義主張等の記事を掲げて発行しました。」
答 それは、実は、丹州時報から何か金借りに来たので、到頭金貸して、さうして其の金を返して呉れぬものやからしやうがないので、こつちが只のやうになつたのです。
問 其の意味か。
答 それで、高木さんか何か知らぬが、「是は必要やから、こちらに買うて置かなければならぬ」と言うたのです。