出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 昭和青年会のはじまり池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 昭和青年会 満州事変
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本文    文字数=7725

問 さう云ふやうに書いて置いて下さい(書記に向ひ)
 十六以下は関係ないから読まないことにします、十五迄……それから昭和青年会と昭和坤生会と昭和神聖会を創立した、と云ふのは念の為に読んで置くが、「是は四十七回昭和青年会は、最初、昭和二年頃に天恩郷に居つた青年の奉仕者五、六人が集つて昭和青年と云ふ雑誌を拵へて居りましたが、其の後大深浩三の指導で天恩郷の青年奉仕者、二、三十名を集めて昭和青年会を組織しました。尤も、当時の昭和青年会と云ふのは会員の知識交換、会員間の親睦を目的として居りました。」
 是はさうか。
答 それは一番初め五、六人の者がたつた一枚の雑誌を書きまして、一冊のやつを六人か七人が替る/\廻り読みの本を拵へて居つたのです。
 会員がずつと廻つて読むやうに、それが二回目になつて、蒟蒻版になり、三回目か四回目からちつと大きくなつて来たのです。
 初まりは、それで誰も、幹部の者も知らなんで、若い者だけがやつて居つたのです。
 それで、其の熱心を認めて其の時に──書いてありますが、御田村さんが一円かなんぼ金をやつたのです。
 其の会に、青年会へ、私もなんでも五円か十円か寄附してやつて、初めはそんなものやつたのです。それも書いてあります、前の青年会の雑誌に書いてあります。
問 今読んだことはどうですか、今読み聴けた所はどうですか。
答 青年会のことばかりでしたか……大抵さうでございます。
問 大深浩三が……。
答 ……やつたのです、大深浩三が主にやつたことです。
問 それは、「発端はそんなことで、所が昭和六年の九月頃満洲事変が起り軍事思想が盛になつて来たので、私は此の機会に」──私と云ふのは王仁三郎のこと、「既存の昭和青年会を軍隊式と為し、大本信者全部を会員と為し、団体運動の訓練を為し、会員は私の命令に絶対服従すべきものとし、統制の取れるやうにして置けば愈々立替立直の際に武力を用ひるやうな際には非常に役立つと思ひ、昭和六年の十月頃天恩郷に於て伊佐男、大深浩三に対し私の意思を伝へ、右の目的の下に昭和青年会を再組織するやうに命じました。」
 「其の結果昭和六年十月十八日に昭和青年会を創立し、同年十一月五日発行の真如の光五十六頁以下に同会々則を掲載発表し、其の後同会則は七年の十二月二十四日に改め、改正した会則は事務便覧第百十九頁以下に掲載してあります。昭和六年十月に制定した会則二条には『本会は人類愛善の大精神に基き昭和の大神業の為献身的活動奉仕を為すを以て目的とす』とありますが、是は『昭和青年会は至仁至愛の国家建設の為、献身的活動を為すを以て目的とす』と云ふ意味であります。又、改正したに条は、『本会は皇道の本義に基き、人類愛善の大精神を以て昭和の大神業の為、献身的活動奉仕を為すを以て目的とす』とありますが、此の皇道の本義は皇道大本規定第一条に」、宜いかい、「皇道大本は経緯の神示に依つて闡明されたる皇道の本義を宣布実践し、以て世界の平和と神人相愛の為に神国成就の実現を期するものとす」とある。
 「皇道の本義と同じ意味で結局教祖の筆先、私の筆先及び霊界物語に於て述べてある大本教義が同会則に所謂皇道の本義であります」と斯う言うて居るね。
答 それは私はちよつと申上げたいことがございます。それは、あの……。
問 ちよつと待つて。而して、結局、昭和青年会の目的は大本の目的と同一であると昨日是は認めて居つたが、活動機関の状態は昨日否認して居つたから改めて言ひませぬ。
答 同一でありまするが、其処に書いてあることに違ふことが沢山あります。
問 創立の形式は宜しいか。
答 それから満洲事変が起りましてから、益々軍部の方の人が出て来て、「矢張り、是は、国民の訓練と云ふことが必要やから、あんた等も訓練をして軍隊組織の方が、是は総ての組織の中で一番優れたるものは軍隊組織であるから、信仰でも救世軍とか云ふ軍隊組織のものがあるのやから、矢張り軍隊組織の方が活気が出来る」と云ふ意味を言つた人があつたものですから、始終来るものですから、それから非常に青年会は、是は皆精神的の青年会にしようと云ふので、爺も婆もそれに入会したいと云ふ者は皆青年会員にしたのです。
 さうした所が、真逆の時には武力を以て斯うすると云ふやうな……大本にはピストル一つ持つて居る信者はありまへぬです。
 武力を以てするのならば、幾分か準備をして居りますけれども、武力と云ふものは一つもありまへぬ。
 そんなことを以てやると云ふのではないのです。
 銃後の活動をしようと、銃後の国民となる、と云ふ、今日で言ふ銃後の国民あゝ云ふ具合に百姓は鍬を以て闘ひ、それは耕作をやる。木樵は斧を以てやると云ふことは、是は皆それが木樵の武器は斧である、百姓は鍬を以て働くのやから、さうして銃後の守をやる、と云ふことは言うて居りますけれども、武器を以て何せい、と云ふやうなことは言うたことがない。
 それに違ひないと言うて、さう御書きになつたのです。其処は──それからまだ終ひの方に何かちよつと違ふことがありましたが、今ちよつと……。
問 其の趣旨に帰省するのでせうが、目的はさう書いてありますが、要するにあれかね、此の青年会と云ふのは何名位居つたのです、全部……。
答 殆ど大本信者のなんです。
 大本信者が、例へば、百人あるとすれば、七十人か八十人位迄青年会になつたかも知れませぬ。
 爺も婆もなつたのですから、赤坊やら小さい子やらはなつて居りまへぬから、さうすると半分位やつたかも知れまへぬ。
問 数ははつきり判らないと。
答 かと思ふのです。兎も角、十四、五から下の者は入つて居りまへぬ。
問 一万二、三千も居りましたか。
答 居つたかも知れまへぬ。
 青年会の青年の千人程集つたことがありますから、それよりは見て居りまへぬけれども。
 併し、どこ其処の代表と云ふやうなことを言うて居りますから、全国何支部の代表、支部に五十人居るか三十人居るかそれは判りまへぬ。
問 それぢや、信者の七割と訊いたら宜しいね。
答 それ位、五割か七割……。
問 実際集つたのを見たのは、千人位であると……。
答 けれども、それは、代表者が皆来たのです。