出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 裏の神諭池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 裏の神諭 内流と外流
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本文    文字数=6902

問 ちよつと待て、それで筆先と云ふものは、神示とか神諭と云ふことになつて居るが、さう云ふものはないのだ、と云ふやうに書いてあるが。
答 それは向ふで勝手に書いたのですがな。
 さう云ふことは知りまへぬ。勝手に書かれましたので、仕方がありませぬ。私は信じ切つて居ります。
問 それから、出口ナカと云ふものの精神には、異常はなかつたのですか。
答 私はなかつたと思ひます。
 或る人は気違ひくと云ひますけれども、「世間の人達がそれは違うて居るのだ、一種の体主霊従の「吾れよし」の人とは違ふ。人を助けたいと云ふ気違ひである。」斯う云ふことを始終お婆さんが言うて居りました。
 「私は気違ひやと云ふけれども、それは一般の人達が違うて居るのや。儂から云へば、世間の一般の人は気違ひや」と云ふやうに云つて居りました。
 婆さんは別に精神異状と云ふやうなことは、なかつたやうに思ひます。
問 普通の人とは変つたやうなことはなかつたか。
答 それは変つて居りますとも──。
問 どう云ふやうに。
答 すべて変つて居ります。行ひから一切の事が変つて居ります。
 詰り云うたら、喰べる物でも普通のものは喰はず、赤葉とか、腐つたものでも勿体ない勿体ないと云つて喰べた。
 それから、一切魚物は食ひませぬ、私も魚物は嫌ひです。 それから、肉食は嫌ひです。又正直なこと、堅いことは此の上ない人でした。それで、又怒つたら其の代り恐い人です。鬼みたいになつてしまひます、又優しいときはねぶり付きたい程可愛い顔をする。問 さう云ふ点が変つて居つたと云ふのだね。
 よし、其の次に訊ねます、裏神諭と称して、神霊界に掲載して居つたものは、被告人の書いたものか。
答 裏神諭と云ふのは、私が神憑りで皆書いたのです。
問 王仁三郎が書いたものでせう、裏神諭は──。
答 裏神諭、それはさうです、私が書いたのです。私に直接に憑つたものを裏神諭と云ふのです。皆がそれを裏神諭裏神諭と云ふことを、云ひ出した。
問 教主ナカの存命中は裏神諭として、神霊界に掲載して居つたし、又直が死亡後に於ては、単に神諭として、神霊界に掲載したものであつて、裏神諭と称して単行本になつて居るのと、それから、王仁文庫の第六篇多満の礎、それから、同じく第九篇道の大本、それから、玉の柱第一篇、道能栞とか等に掲載したのか。
答 はあ、さう云ふのは──教祖の筆先と、私の裏神諭と違ひます、文章から云ふても、中味から云うても違ひます。読んでも判ります。違ひまつしやろ。
問 裏神諭と云ふのは、神諭ですか。
答 私は知つとつても、そんな勿体ないことを書きまへぬ、知つて居つても書きまへぬ。霊界物語でも神憑りで書いて居る。
 頭が大分おかしいやうだが、どうか五分間休まして戴きたい……。
裁判長 五分ぢやなく、休憩しませう。
 さうすると、此の点に付て、ちよつと。是で終りにするから。
 神諭と云ふ……裏神諭は神諭ぢやないと云ふことを、第五回の六問答で、予審調書で……。
答 私が神諭ぢやないと云はなければ仕様がない。
問 ナカとか、被告人は神憑り状態になるのですか。
答 なるのです。二人共なるのです。
問 ナカの方はどう云ふやうになる。
答 ナカの方は斯うして、(と手真似をしながら)まるで百二百になつたやうな、お爺さんのやうな声になつて仰つしやるのです。
問 其の時筆先を書くのか。
答 其の時には書きまへぬ。何時書くか判らぬ。昼書いたり、夜書いたり、霊のかかつた時に書く。又霊のかかるのが口と手とでは違ふ。
問 王仁三郎はどうです。
答 私は、始まりは嬉しいが、落着かぬ。
 穴太に居つた時分には、ちよつと人から見たら、気違ひぢやないかと、随分云はれました。自分でも気違ひぢやないかと思ふ程、ぢつとして居つても飛び上り、声が喉から催す。
 それで永沢先生の所に行き、鎮魂をして貰うた。
 私の体には、小松林命の精霊が何時も入つて居ります。其の精霊を通さぬことには、間接内流も、直接内流も出来ない。其の精霊を通して見ると、霊界の消息も、幾分か判るのであります。
問 能く判りました。それで此の予審の第九回の方の所に、之に反する記載があるやうだが。
答 自分は三十一年頃は……。
問 ちよつと待て、此所に書いてあることを訊いて居るのですよ。
 書いてあることは、「他所の人から頼まれて、坐つて拝む。さうして、体が慄へ出して来る。さうして死人の臭がするやうな気がすると、病気が癒るか、癒らぬかと云ふことが判る。それはそれで、それから神憑の状態に付ては、人間に神が憑つたと云ふて、色々なことを喋りますけれども、其の喋ること等は、其の人が是迄にきいて居つたことを自由に喋るので、其の人の智識以上には言へぬものである。神憑りと云ふことは、結局其の神憑りになつたと思ふ人の人格作用で、さうなつたに過ぎないと思ひます。私の考では、神の霊が人間に憑ると云ふことはないと思つて居る。」
 さう供述して居りますが、是はどうだ。
答 それは皆予審判事さんが、「さうぢやらう、さうぢやらうと云つて、御書きになつたのです。」
 私はそんなことを云ひさうなことはない。
問 さうだらうね。
答 ええ、第一に和気清麻呂の神勅でさへ、疑ふやうな人ですから……。
問 それから、裏神諭と云ふのは是だね。
(此の時裏神諭を示す)
答 さうです。
裁判長 それでは全部起つて──。
(総員起立)
午前は是だけにして置きます、午後は一時から続行致します。
午前十一時五十七分休憩