出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 神霊界と筆先池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 神霊界 神諭と筆先
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本文    文字数=10205

問 それから次は、此の神霊界には、出口直事ナカの筆先を掲載して居つたのですね。
答 それはね、沢山ありまして、もつとあつたのを、重ねて書いてあるのは、編輯部のものが先から先へと延ばして書いて居た。
 其の時分には丁度金借ばかりに歩いて居りましたから、滅多に私は家に居りませぬからー自分で出しましたけれども、能く……。
問 勿論、此の神霊界に掲載せられたる、所謂筆先と云ふものは、全然出口ナカの書いたものを、それを出したのですね。
答 さうです、後には私の書いたのもあるが、予審でも私が神憑りで云ふたことだと云ひましたら、嘘付けと叱られました。
問 それは神憑りの状態か、神憑りの状態は後で訊きます。
 教祖ナカの書いたものを、出して居つたのですね。
答 それは殖やすことはせずして、減して連絡をして行きました。下手に連絡したものもあり、非常に上手にやつたのもある。筆先を見ると、良く出来て居るのもある。
問 此のナカの書いた所の筆先と云ふものは、如何なる文字で書いてあるか。
答 平仮名です。
問 其の筆先は断片的のものであつて、意味が不明瞭のやうなことはなかつたか。
答 断片的であつて、意味の点は、唯それだけを読んだら判らぬ。
 ずつと皆読んで見ますと、飛ばして行かぬやうに読みますと直ぐと判る。
 同じことを書いたのも沢山あります、二十枚綴、四十枚綴、六十枚綴、八十枚綴と云ふやうなのがあるのです。
(此の時筆先を示す)
答 断片的なんです。
問 さうか。
答 それは御神体になつて居る、神様に祀つてある筆先です。
問 併し、筆先でせう。
答 エ、是は神体として祀つて居つたものです。
問 筆先は斯う云ふ書き振りだね。
答 さうです、皆其の神さんの御神体にして居つたのです。
(又別の筆先を示す)
問 是もさうか。
答 さうです。
問 斯う云ふやうに、断片的に書いて居つたのですね。
答 同じ筆先ですけれども、御神体は断片的で、教典の筆先とは違ふ。
問 教典としての筆先とは違ふのですね、それは唯一枚としてか。
答 二十枚綴、四十枚綴、六十枚綴、と云ふものが続いて居つて、中の文句が切れて居ると云ふのです。
(此の時別の筆先を示す)
問 是は──。
答 それも御神体です。
問 それでね、筆先なるものは出口ナカが、被告人王仁三郎や他所の人が云ふことをきいて、それを覚えて居つて書いたやうな事情はないですか。
答 それは神憑りの基礎と致しまして、間接外流、直接外流、直接内流、間接内流と云ふものがある。
 或時に人に聴いたのが先入主になつて居つて、それが一緒くたに出ることがある、それは詰り間接外流です。詰り一旦消化してしまつて、頭に入つてしまつて、消化されて出て来て居る。それを間接外流。
 又直接外流と云ふ方法もあるのです。
 それで此の神憑りの道をするのにも、永沢先生や本田先生が仰しやるのには、「神書を始終詳読して、神徳を覚えて置かなければならぬ、どうしてもさうでないと縁がないから、神様は憑いて来ないと」仰しやる。
 総て縁がなければ、筆先でも何も出て来ない。
問 予審調書に、斯う云ふことが書いてあるがね。
 第四回の五問答に於ては、直が信者の話して居ることを、聞いて居つたことや、「私が話して居ることを聴くと、直ぐそれを紙に書付けて筆先にする癖がある、それで」……。
答 ……それは。
問 ちよつと待て──「大正二年頃迄は、私の考へて居ることに都合の好い筆先を書いて貰はうと思うたならば、執拗に斯う云ふことがあると云ふて、事実を話して、ヒントを与へると、開祖は其の私の話した一部分を断片的に書くやうになつて居りました」、と斯うあるね?
答 それは異議ありませぬ、それは高橋さんが、さう云ふやうに書いたのです。
 予審もそれに違ひないかと仰しやつたから、へい/\と云つて、争つても仕様がないから、公判で云うたら宜いと思つて居つたのですけれども、矢張り是は間接外流だと思ひます。
 本当の筆先は、私の悪口ばかり云つてる。
 「上田やとか云ふ奴は斯う云ふものだ、素盞嗚尊の悪神が付いて居る」とか、悪口を書いて居る。私が云ふたかと云つて、それを書くやうな人ぢやない、なか/\そんな恰好な婆さんではありませぬ。
問 直の筆先として発表になつて居るものを見ますと、立派な文章体になつて居るやうだな。是は断片的では其の意味が明瞭でないと云ふものを、王仁三郎に於て、自分の考も加へて漢字交りの文章にしたやうなことはないのですか。
答 私の考はありませぬ、私は唯神様の書いて……。
問 私の訊ねたことが判りますか。
答 私の心が入つて居るのぢやないかと、仰しやりましたのやろ。
問 此の文章は漢字交りの立派なものになつて居るが、それには……。
答 判りました。
 それはね、私に霊感があつて、神が直して呉れたのです。神様の書いたことは、神様でなければいけない、罰が当る。神憑りになつて、神様が直して呉れる。直の手を通じ、口を借りて書いて居るが、判らない所は出口王仁三郎の手を借る。
 だからナカの精神は、ちよつとも違うて居らへんのです、詰り云へば、鯣を鳥賊と云うた位の違ひです。
問 此の点に関し、第四回の五問答の終りの方で、斯う云ふことが予審調書に書いてあるが、それはちよつと重要な点で、触れて置きたいと思ふが、筆先は文句は断片的で、意味が不明瞭である、それで王仁三郎自身が自分の考を加へて、意味の判るやうな文章に書直して、漢字交りの文にして、意味の判るやうな文章にして、それを神諭として、神霊界に掲載して発行した。「神霊界に掲載してある神諭の原稿は、私が書いたものであります。」
答ちよつと……。
問 まあ御聴きなさい。全部聴いてから──「之を譬へて云へば、開祖は金米糖の芯だけを拵へて置き、其の芯に砂糖を付けて、火に掛けて交ぜて、段々大きくして、立派な金米糖に仕上げたやうなものだと」云ふことを、書いてあるね。
答 其の事を云ふたのぢやない。
 詰り教祖と云ふ本があつて。……金米糖と云ふものは、角が沢山生へて居るけれども、決して恐いものではない。ねぶつて見ると甘いものである、味の美い物である、それだからして立派な教を、之を拵へるやうにしたのです──と云ふことを云ふたのです。
問 此所に書いて居ることは、自分の考が加つて居るやうになつて居るが、自分の考も加つて居るやうに書いてあるが……。
答 ……どう云ふことを。
問 断片的で意味が判らぬから、自分の考を加へて判るやうに組立てたと云ふ……。
答 そんな妙なことを云やはる訳がない。「あの婆さんが、そんなことを云ふものか」と、私は高橋さんに申しましたよ。
 学者と智慧者とは違ひます。学問と智慧は別だ。賢い人は多勢の人を使ふのに智慧で使ふ、お直さんは無学者であつても、智慧はあるのです。矢張り賢いことも云ひます。弥勒と云ふやうなことも神さんから聴き、筆先に書いた。
 それを皆私が、書いたやうにされてしまつた。それだから私は仕方がないから、さうして置いたのです。仕様がありまへぬもの。
問 さうだとは云はんぞ。
 弁解を訊かなければならぬから、訊いて居るので、さうだと断定するのぢやない。
答 へ、それは予審の……。
問 さうだと云ふのぢやない。さう云ふ書方に居るから、弁解を訊くのだ。
答 はい。
問 それからね、出口ナカの書いた、筆先と云ふものは、神示又は神諭であるのですか。
答 神諭であります。
 神様が直の手を借りて、口を借りて、さうして神様が……金米糖と云ふものはー一つ教祖と云ふものがぽつんとあつて、其処へ向けて色々の教を集めて、金米糖になつたと云ふ位にです。
問 さうすると矢張り神諭か。
答 神諭や其の他総てのものが……言霊学も入り、言霊学も一つのぼち/\です。一つの大本団体と云ふものが──甘い綺麗な物が出来たと云ふことを、判るやうに金米糖と云つたのです。
問 五回の四問答に斯う云ふことを書いてあるのですがね、宜いかい。
 「直自身が神憑りにはなつて居るものとは思へぬ。自分は、直は神憑りになつて居らぬと思ふと云ふやうに思ふ」が──。
答 へ、それは誰が云うたのですか。