出口王仁三郎 文献検索

リンク用URL http://uro.sblog.jp/kensaku/genshow.php?CD=12612&T1=&T2=&T3=&T4=&T5=&T6=&T7=&T8=

原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 第一次事件時の大本の発展状況池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 一次事件 神諭と筆先 大正日々新聞
ルビ付き本文:
ダウンロードページ
 
本文    文字数=3711

問 大本を宣伝して行つたと。
 それから、大正十年、大正十年の十二月に、被告人等に対して、不敬並に新聞紙法違反に依つて、検挙があつた頃迄に於ける皇道大本の発展の状況はどうだつたかな。
 神霊界を発行する。
答 神霊界を発行致しまして、さうして、約一年と云ふものは、経費も月の初めは五百円位出して居りました、終ひには七百円出しても、金は月に十円位しか入つて来なかつた。
 一年程すると、金を信者から送つて来るやうになりました、それから、雑誌が発行出来るやうになつた。其の時には、もう二千余り刷つて居りました。
 それから七年頃には三千程になつた、雑誌が殖えると共に、信者が殖えて来た。
 さうして、浅野さんが金竜殿と云ふ所で、鎮魂と帰神を受持つて居つた。私は金がなくて仕様がないから、あつちやこつちやに金を借りに行き、そんなことばかりに年程して居た。
問 神霊界の発行の状況を訊いたのだが、尚又天の巻、火之巻を此の間に使つて居つたのぢやないか。
答 それはね、私は編輯部の連中やら皆寄つてる所に、私も顔を出しましたけれども、神霊界と云ふものは実際に、此の前に私が出したと云ひましたけれども、多勢の人が引つ張られた時に、「面倒臭いから、皆私が引受けてしまつたらよい」と思つて、引受けてやりましたが、其の時分には浅野氏が出して居つた。帝大の学生なども連れて来てやつて居たし、編輯には吉田与一、神戸の桑原、さう云ふ人がやつて居た。
 さうして、火之巻は知らぬ間に浅野正恭さんが出した。其の時に小牧斧助と云ふ陸軍の大佐が居ります。其の人が会長で、浅野正恭の顧問みたいになつて居つた、さうして、小牧さんがそれを持つて来ました。さうしたら、之に妙な歌がある、例へば……。
問 内容は宜いぢやないか。
 十年迄の間に。
答 許可になつた、神霊界に出て居るものは、出しても宜い、さう云ふ事情でございました。
問 八年の十一月に火之巻を発行するやうになつたのだね。是も筆先の……。
答 さうです、併し火之巻は発禁になつた。
問 其の時には発禁になつて居らなかつた。
 それで斯う云ふやうに宣伝をやり、信者も一万人位になり、又支部も百二十箇所位になつたのでせう。
答 さうです、十年事件の起つた時に、百二十位であつたのが、帰つて見たら、百五十に殖えて居りました。
 それを云ひましたけれども、高橋さんが聴きませぬでした。た。
問 それから建築などもやるやうになつたのぢやないか。
答 え?
問 建築物を……。
答 能く覚えて居りませぬが、初めはバラツク建の──。
問 予審の六回に於て述べて居りますね。教主殿を八年の九月に建て、又十一月に黄金閣を建て、それから九年の二月に弥勒殿を建て、それから同年の旧八月に、至誠殿を建て、それから八年の末頃には、亀岡の城趾を買収し、瑞祥閣を十年二月に建築して、又大正日々新聞を買収して、機関として居る、斯うなつて居るが、さうですか。
答 はい。