出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 すみとの結婚池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 出口澄 金明霊学会
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本文    文字数=3073

問 其の時から宗教類似の形態をなして来た訳だな、それから其の後出口ナカの婿養子となつたのは。
答 はい、ちよつとなんですけれどー娘一人に婿五人と云ふやうな工合で、あつちやこつちやと云ふ状態であつたのです、私もおすみを嫌ひでもなかつた。
 綾部に──お直さんを使うて、さうして中村竹蔵と云ふのが嫁を追ひ出してしまつて、すみを何しようとして居た。それから又南部孫三郎と云ふのが……。
問 そんなものは宜いぢやないか。
答 私は静岡へ行く積りだつた。
 静岡の永沢先生の妹はんにひさ子と云ふのがあつた。お婆さんが、「之の婿になつて呉れ」と云やはりましたから、行く積りだつた。
 処が教祖の筆先に、「出口すみの婿は王仁三郎と」書いた。私やと云ふことを書いた。上田殿がと書いた。すみは上田殿と書いた。すみの婿ぞよと書いた。それで筆先に出て居るのだから静岡へ行くことが出来ないと云ふことになつた。
 私も余りすみを嫌ひでなかつたものだから、ずるくべつたりに入つてしまひまして、さうして翌年の三十二年の一月に結婚式をしたのです。神前結婚をしたのです。
 さうした所が、私は兄貴ですから養子に入れない。私は長男ですから、それだから子が出来ましても出口と云はずに上田──自分は上田でしたから、上田あさの、上田王仁三郎でしたから、ナカが気に入らぬ。「どうしても出口にならなければいかぬ」と言ひ、どうしてもならうと思つてもなれまへぬが、弁護士や色々の人を頼んで置きました。
 さうしたら、「あんたが婚姻に依つて子迄出来て居るのだから廃嫡が出来る」と言うて呉れて、婚姻に依つて出口家に入ると云ふことになつて、明治四十二年頃に出口王仁三郎になつた。
 其の証拠には明治四十年に建勲神社主典に任ぜられた時は、上田王仁三郎でした。
問 明治三十三年十一月に婿養子になり、四十四年一月にすみとの結婚届出を出して居るやうだね、明治四十四年一月にすみは結婚届出をして居るね。
答 さうだらうと思ひます。
問 それからね、四十四年の十二月にナカが隠居して出口家の戸主になつたと云ふぢやないか。
答 さうでせう、さう云ふやうに思ひます。間違ひはありませぬ。
問 結婚した顛末を今訊いたのだが、被告人は金明会を金明霊学会と名前を改称し、大本とした、大本の本部を京都府何鹿郡の綾部町本宮に移したのだね。
答 さうです、其の金明霊学会と云ふものは、霊学会と金明会を一緒に言つたのです。