出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 鎮魂帰神池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 鎮魂帰神 多田琴 
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問 清水に行つて、稲荷講社の永沢雄楯から鎮魂帰神の法を習つて、得業証を貰つて、それから穴太に帰つてからは矢張り病気平癒、祈祷などもして居つたのか。
答 穴太に帰つてからは、余りさう云うことはして居りませぬ、四月に帰りまして、末に帰つたのでありますが、さうした所が私が帰りまして永沢先生に教へて貰つた鎮魂帰神の術を多田琴やとか、上田幸吉やとか、七、八人の連中に教へまして、先生から教へて貰うた鎮魂をやつて見た。
 さうしましたら皆神憑になりまして、私は何の神とか申し、それから私は非常に嬉しくなつたから、一遍先生に報告して、「短時日の修業でこんなに七、八人の者が一遍に神憑りになるのは不思議だ、先生に訊いて見よう。而もそれが止らない、私の力で止めることが出来ない。」先生に今一遍訊いて来ようと思つて、又清水へ行つた。
 多田琴は、「儂は稲荷や」とか、「白滝大明神である」とか云ふて穴太の村を歩いて、「御前の家は斯う云ふ悪いことをした、改心せい」と云ふやうなことを言つて歩いた。
 村の人は、「彼奴は覚えが宜いから、方々の家のことを知つて置いて、教へて置いて言はして居るに違ひない」と言つて、村の者が出て来て私の家を攻撃した。
 それで家から早う帰つて来て呉れと云つて来たので、私は清水から帰つて来た。そして発動を抑へることを教へて貰つて帰つて来たので、それを抑へてしまつた。
 それから、神憑りと云ふものは成る程ひどいから恐しいものだと思つて、それからは余りやらなかつた。
 それが五月、六月の時分で、七月、八月は暑うございまして、あつちやこつちやの稲荷さんから「見に来て呉れ」と云ふから、其処へ行つた。
 亀岡には研究がてら行つて居つた、静岡の稲荷講社とはどれ程法が違ふかと思つて行つて居つた。
 それから秋の小口になりまして、それから一遍何しに行かうと思うて園部の井上直吉の所に行つて来ようと思つて……。
問 別に病気の平癒の祈祷はしなかつたか。
答 余りしませぬでした。
問 鎮魂の方は。
答 苦しんで居つたのを抑へるのに困つて居つた。
答 霊学会で神様を祀つて居つたのぢやないか。
神様を祀つて居りました。霊学会と云ふものは、永沢先生の所に、私はそれの会長になつて居りましたが、それを持つて帰つたのです。