出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 高熊山修行の経緯池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 高熊山
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本文    文字数=3197

答 そこのところがちよつと抜けて居ります。
 私は十三の時から一生懸命水をかぶつたりして神憑の術を習つて居りました。
 さうしたら二十六の年から私は牧畜をやるやうになりまして、余裕が出来ましたから、夜の十一時頃から朝の四時頃迄一人で神憑の修業をやりました。
 三十一年の四月、旧の四月の八日頃だと覚えて居りますが、私の親類に次郎松と云ふ男がありまして、「博奕打の河内屋の女を取つたと云ふので二百両貸せ、貸さなかつたら地獄川へ簣巻にして打込む」と言つて来たので、それで仲裁を私の所に頼みに次郎松が来た。
 私は侠客が恐いけれども親類のことであるし、金も二、三円借りて居りましたから、義理で行かんならぬと思うて行きました。
 さうして話をして仲直りをすることにして、河内屋から十五円と次郎松から十五円と出して、是で一杯飲まう(笑声)。
問 それは宜いぢやないか。
答 ちよつと聴いておくんなはれ、是が元なんですよ、神様の……
 処が河内屋と云ふ奴は侠客だから、「侠客的な仁義を以てやらう」と云ひ、こちらは素人だし、そんなことが出来ないと言つてごた/\した。
 処が、結局河内屋と云ふ奴が、十五円の金も払はないでしまつた。
問 関係が一体あるのですか。
答 エゝ……言うて宜しうございますか。
問 う。
答 其処で、私は長吉と三人連れて家へ帰りました。
 処が三日程したら私が浄瑠璃を語つて、次に『現れ出でたる武智光秀』と言つて居る時に、ほんまに河内屋が現れて来て、自分を表へひつ張り出した。
 家の前の桑畑へ連れて行つて、私を殴つた。私は桑の木の──古い木の下に隠れたから、対手が殴つても余り私には当らなんだけれども、頭に傷が出来たり、血が出た。
 さうすると朝になつても私は頭が上らぬ。牛は鳴くし、乳を貰ひに来ても搾つても居られないから、本宅の母の方へ訪ねて行きました。母が出て来て見たところ、私の顔を見てわつと泣いた。「去年迄は家のお父つあんが居つたから家の子を呶鳴りもせぬだつたのに、母親一人になつたから──と」云ふので泣きました。
 「さうぢやない私は己むを得ざる事情の為に殴られたので、父が居なくなつたからやられたのぢやない、斯う云ふ理由があるのだから」と言つた。
 併し母に済まぬことぢやと思つた。
 さうしたら八十歳になつた祖母が出て来て一生懸命泣きました。「侠客なやうな者の対手になるな、親が大事と思ふならさう云ふことをして呉れるな」、と斯う申されました。
 さう云ふ経緯から私は高熊山へ修業に行きました。