出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
大本史料集成 全3巻1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻歴史 青春時代まで池田昭・編参照文献検索
キーワード: 二次事件裁判 青年時代
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問 ちよつと訊きます。それぢや先づ経歴のことを訊かなければならぬ。
 王仁三郎の経歴に付てはですね、決定に依りますと、決定の内容に依りますと、借行小学校を卒業し、家事手伝の傍ら漢籍、神道、国学に関する書籍を繙読して研究したと、斯う云うことになつて居りますが、本当ですか。
答 是は此の間申上げました大久保吉春先生から借りて神道の本を読みました。
問 借行小学校と云ふのは尋常か、或は高等か。
答 其の時分には尋常も高等もなかつた。唯小学校と称して居り、偕行校とも云ひました。陸軍省の偕行社の「偕」です。
問 此の漢籍、神道、国学に関する研究をした顛末に付ては、予審の第二回調書の一問答に於て述へて居るが、是は此の通り聴いて宜しいか。
答 さう云ふ履歴の所は其の通り申して居ります。
問 此の通り聴いて宜しいね。
答 はい。
問 それから被告人が大本と云ふものに関係する迄の経歴は、予審の第二回訊問調書に見えて居るが、此の通り聴いて宜いか。其の内容は詰り念の為めに訊いて置きますが。
答 ちよつと読んで見て下さい。
問 上田吉松の長男として生れ、旧名を上田喜三郎と言ひ、九歳の時より十三歳迄京都府南桑田郡穴太村の偕行小学校に行き、同校卒業後一年半程同校の下級生徒を教へて居りましたが、それを辞めて其の後は私方の百姓及醤油小売商の手伝をして居りました。
 私は十歳位から十六歳位の時迄居村金剛院の住職に就いて四書五経、十八史略、文章規範等を習ひ、御経の本も習つた。
 又十三歳の時からは、兵庫県多紀郡春日江村の神道妙霊会の先生から延喜式の祝詞及神道の本を数冊借受けて之を読んだ。
 是は神道の方の研究。二十三歳の時から岡田惟平と云ふ国学の先生から国学の本を数冊借受けて読み、神道及国学の本は引続き最近迄読んで居た。それから家事の手伝をして居る傍ら、暇の時には荷車引もして居た。
 二十三歳の時から牧場を経営して居る所の井上直吉の助手となり獣医のことも研究したり、牛乳を搾つたり、或は又牛乳の配達などもして居つた。
 二十六歳になつて穴太に帰り、上田正完外一人と共同して牧場の経営をして牛乳の販売をし始めて、明治三十一年二月に是も止めてしまつた。
 是だけが職業上の経歴になつて居るが、是は間違がないのですか。
答 其の通りです。
問 其の通りか、附加へることはありませぬか。
答 それに間違ひありませぬ。
問 それから──二十一年の四月、それから──二十一年の四月静岡県の清水……。
答 下清水です。
問 其処の稲荷講社総本部の永沢雄楯に付て、鎮魂帰神の法を習つた。神道講習、病気平癒の祈祷等を為して居た。
footnote
繙読 はんどく 書物をひもとくこと。