出口王仁三郎 文献検索

リンク用URL http://uro.sblog.jp/kensaku/genshow.php?CD=12542&T1=&T2=&T3=&T4=&T5=&T6=&T7=&T8=

原著名出版年月表題作者その他
出口栄二選集 第1巻──大本の思想と歴史 (全4巻)1979.05昭和神聖会出口栄二参照文献検索
キーワード: 昭和神聖会
詳細情報:
" 第二次事件の近因は何かというと、これは昭和神聖会なんです。昭和六(一九三昭和神聖会一)年に満州事変が起こる。それが中国に拡大し、やがて十五年戦争に発展してくるわけですが、この満州事変が勃発した一九三一年を一九三一《いくさはじめ》・戦《いくさ》のはじめ、と王仁三郎はよんでおります。あるいは皇紀にすると、二五九一年《じごくのはじめ》と皮肉って、ここからいよいよ大変なことになっていくということで、王仁三郎は予感をもっていたと思わざるを得ないわけです。というのは、満州事変が始まる十日ほど前に、長いこと綾部本宮山麓にふせておりました三基の歌碑を、本宮山にどうしてもいま神が建てろといっている、ということで建てています。いよいよこれから神様の御経綸が始まるんだ、ということをあっちこっちで言っており、そういう記録が残っております。
 そしてこの神は、『お筆先』に「世界に大きなことやかわりたことがでてくるのは、みなこの金神の渡る橋であるから、世界の出来事を考えたら神の経綸がわかりてきて、まことのかいしんが出来るぞよ」とあるように、いろいろな出来事を通じてはじめて世界に現われていくのだ、ということもいっております。日本の敗戦というものを、大分前から予感しておっただろうなと思われる節も出てくるのです。
 それで最後の、救国的愛国的運動として、昭和九年に昭和神聖会という運動を起こしたのだろうと思います。しかしもう一つ客観的な材料が乏しいので、我田引水になっては説得力もないと思いますが、いまのところ当時の王仁三郎の行動、思想をありのままに残してゆくほかに良い方法がないのです。昭和神聖会を興した真の目的は今後の課題だと思います。しかし、"自分が弾圧を受けなくても、このままでいっていたら、日本の宗教として責任を考えなければいかん、おそらく戦争にかり立てられていくだろう、平和を願う宗教人として忍びない。それだったらいっそのこと、弾圧を受けるだろうけれども、これによって日本の来るべき大難を小難に、そして神の言葉、予言というものは本当であった、歴史的に適中したということを証する一つの宗教人としての態度をとりたい"とのぎりぎりの問題が昭和神聖会ではなかったかと私は思うのです。
 当時、会員は陸海軍の将官、政治家等々なんかも多く入っておられたし、その頃はしょっちゅう東京に王仁三郎が出かけて、皇族や貴族の方々にも会い、日本の将来はこうなる、ということを話していたようです。"