出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
瑞祥新聞 宗教無用論 参照文献検索
キーワード: 愛について
備考: 著作集(3) P.14 愛をつくす 「皇道大本の筆先にあるとおり
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本文    文字数=2551

 皇道大本の筆先にあるとおり、世の中が至粋至純であれば神さまの教えはいらぬのであります。
 世が乱れて人々がたがいに悪み、妬み、謗りなどする世の中となつているからして、なかにも日本人はそんな癖が多く、いわゆる島国根性であつて、外国からも探偵気分が多いといわれる状態で、他人の非をさがすことを痛快事と考えるような癖があるのである。他人の悪いと思うところは直接その人に忠告をし、けつして他人の非をいわぬにかぎるのであります。すなわち善言美詞にかぎるのである。さればとて巧言令色とは違うのである。善言美辞は愛に発するものでなけれはならぬ。愛は善のため、愛のための愛であつて、けつして自己のための愛であつてはならぬ。戦争にたつて国のためになったというが、それもやはり自己愛の拡張にすぎぬのであって、もひとつ大きい「世界愛」でなけれはならぬのであります。人類人主義、万有愛の神愛でなければならぬ。
(宗教無用論 「瑞祥新聞」昭和10年5月1日)

 善言美詞は対者によることであつて、車夫が同士にたいしては車夫の言葉、ちょつと聞いてはなはだ悪言暴語のような言葉でも、それが善言美詞であるし、地位名望のある人たちの間には、それそうとうの美しい言葉がかわされねばならぬ。
 「まだ生きてけつかるのか、米が高くて困るぞ、よう」というと、「やあ手前もまだ生きていたのか。」
これは私が荷車をひいていた時代に、これらの社会においてたがいにとりかわさるる言葉であつた。労働者たちの間の善言美詞である。こうした暴い言葉の底にひそむ、友を思うの情はたがいにじゆうぶんに相通じ了解されるのである。もしこれらの人が切り口上や、ていねいな言葉を使いだしたら敵意をふくんでいるのである。舌のもとには心ありとの神歌のごとく、要は心の問題で、敬愛の心からでる言葉は、表現はまずくとも、善言美辞となってあらわるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは阿諛諂佞となり、欺言、詐語となる。
(善言美詞は対者による、「神の国」昭和5年1月)